大判例

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神戸地方裁判所 昭和39年(た)2号 決定

請求人 徳本吹喜雄

決  定 〈請求人氏名略〉

右の者からの再審請求事件につき、当裁判所は右請求人、その各弁護人及び検察官の各意見をきき次のとおり決定する。

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

第一、再審請求の要旨

本件再審請求の要旨は、再審請求人徳本吹喜雄に対する昭和三六年九月二五日確定の強盗傷人、脅迫被告事件の有罪確定判決のうち強盗傷人事件の部分につき、

一、小林成司、下山四郎、奥幸夫三名の右事件に対する自白が新たに得られたこと

二、事件直後の深夜、被害運転手稲村清が救助を求めてきた民家の主人空野宏の供述によれば、右確定判決において認定された犯行現場が真の犯行現場と異なることが新たに発見され、従つて右判決の基礎となつた唯一の物的証拠たる男物下駄片足の存在は無意味となつたこと

以上は刑事訴訟法四三五条六号にいわゆる「有罪の言渡を受けた者に対して無罪を言渡すべき、明らかな証拠をあらたに発見したとき」に該当する事由であるから、ここに再審開始の決定を求めるというのである。

第二、小林成司、奥幸夫、下山三郎の各自白の存在

そこで先ず本件再審請求並びに同趣意書に証拠として引用されている、徳本吹喜雄ほか七名に対する神戸地方裁判所昭和三七年(わ)第二一三号監禁、強要被告事件(以下監禁事件と称す)において、領置中の大塚私立探偵社捜査記録書一冊(昭和37年押第342号の三一)、録音テープ六巻(同号証の三、四、五、六、七、三七)によると、

1、小林成司の大塚義一に対する第一回口供録取書によれば、昭和三六年一〇月一三日神戸市生田区楠町二丁目二五番地大塚私立探偵社において、小林成司は大塚義一に対し、「昭和三二年三月初頃、下山、奥と三人で有馬街道の有馬橋を越した所で自動車強盗をやつてから約一週間経つて、再びこの三人で神戸の福原で夜一〇時から一一時の間位まで遊んだ後、今夜も帰りに自動車強盗をやろうと相談し、楠町の交差点を有馬道に沿つて約一〇〇メートル位の所で平野終点方向に進んでいたタクシーを停め、有馬までと言つて三人が乗りこんだ。自分は運転手の直後の客席、下山は自分の左の客席、奥は運転手の横に座つた。有馬街道を進み有馬の手前の唐櫃附近だつたと思うが、自分が運転手に車を停めさせ、何も言わずに運転手の後から組みつき右手で運転手の右肩越しに首を締め左手で運転手の懐中を探つた。この時下山も運転手の後横から組み付くようにして運転手のポケツトを探つていたように思う。運転手は僅か千円足らずしか持つていなかつたので、自分は自動車から降り運転手の横のドアを開け、運転手を三人がかりで自動車から引きずり降した。この時自分と下山が運転手を殴つた。そしてちようどこの道には川が沿つて流れていたので、誰がどうしたかは記憶していないが三人で運転手をその川にほりこんだ。それから自分が自動車の運転に多少経験があつたのでその自動車を運転し、下山と奥を客席に乗せ有馬から宝塚に抜け大阪に行つたが、地理に詳しくないので大阪の街に入つて約二〇分走つた所で車を乗り捨てた。それから三人で歩いて阪神か阪急電車の梅田駅から神戸に帰り、三宮から神戸電鉄湊川駅に出て三田に帰り三人は別れた。事件当夜の自分は安物の男下駄をはき鼻緒は多分紺地の布だつた。この下駄は運転手と格闘した際その場で落したが、それが道か川かも分らず探すこともできなかつた。自分が自動車を運転する時どちらか片足だけ下駄があつたか、大阪で車を乗り捨てた際その片足だけはいて少し歩き、夜が明けてから通り道にある下駄屋でつつかけ草履を買いその片下駄は附近に捨てた。自分は前後四回の自動車強盗をしているが、この運転手を川へほりこんで自動車を乗り逃げしたことが今日まで知れずにいた。自分が三月初めにやつた最初の自動車強盗の件で神戸の拘置所にいた時、運動時間に下山と会つたら、下山が自動車強盗の疑で入つている男が俺は何も知らんのやが君知らんかと言うのや、わしらの手口によく似とると言うのやという話をした。それ以上の話はできなかつたが、自分はえらい事になつた、自分らの隠している事件で来ているのだと思つた。口には出さなかつたが心の中ですまないと思つた。しかし自分らは調べがすんでいる事だし、このまますむことだつたらすましたいという心からその事には何も触れず、他の三件だけで判決を受けた」旨供述し、同録取書末尾には記載内容に相違ないとして署名指印している事実。

2、小林成司の大塚義一に対する昭和三六年一〇月一三日付供述の録音テープを録音機により再生聴取すると、小林は大塚に対し、「自動車強盗事件三件で懲役五年の刑を受けたことがあるが、もう一件隠しているのがある。それは昭和三二年三月初頃に最初の自動車強盗事件を下山、奥と三人でやつた後、一週間ほど経つた頃また下山、奥と三人で神戸で遊んだ後夜一一時になるかならん頃に、自分がまた自動車強盗をやろうと言い出して楠町の交差点の上の方でタクシーを停め、運転台には奥、運転手の直ぐ後の席には自分、その横に下山が乗り、有馬へ行けと命じて発車し有馬街道を走つた。あの道はあまり走つたことがないが大体唐櫃あたりで誰がストツプさせたか分らんが車をストツプさせ、自分が無言で後から運転手にとびついて首を締めた。そして三人で運転手を車からほり出してそのポケツトへ手をつつこんで金を探して金をとつた。金は千円までだつたと思うが、自分も下山もその金を持つていた。運転手は別に抵抗しなかつたように思う。下山が運転手を殴り自分も手をかけたが、その道の端が小さい川でその川に運転手を落した。運転手がそれから先どうなつたかは知らない。それから三人で車を持つて逃げた。その理由は分らないが気がついたら車を持つて走つていた。自分が運転した。無免許であんまり自信もなかつたが、ボチボチ走るのはできる。そして有馬、宝塚、池田を通つて大阪へ行つた。大阪市に入つて二〇分位走つてどの辺か詳しいことは分らんが、車を乗り捨てた。拘置所で下山から右の事件で疑のかかつている人が入つて来ていると聞いて、これは大変なことになつたと思つたが口には出せなかつた。現在ただもうすまなかつたと思うばかりである。以上述べた事件は間違いない」旨供述した後、1の第一回口供録取書を大塚が小林の面前で朗読しその内容の真偽を問うと、小林は「間違いない。徳本に対してはすまない悪いことをしたと思うが、当時既に他の件で判決をもらつていたから、このまますむのだつたらすませたいと欲を出して黙つていた。事件の格闘現場ではいていて落した下駄は歯は半分も減つていない。当時の奥、下山のはきものは分らない」旨供述している事実。

3、また、小林成司の大塚義一に対する第二回口供録取書によれば、昭和三六年一〇月一五日同探偵社において小林は大塚に対し、「一三日に記録してもらつたことの中で多少思い違いの所がある。それは徳本に疑のかかつていた自分ら三人の自動車強盗の事で、その場所については有馬の手前の唐櫃あたりであつた様に思うと言つて、昨一四日共犯の奥と共に自動車で大塚を案内した。当時はなにぶん夜のことであつたし自分らはせいていたので、今度現場附近と思われる場所をここということがはつきり言えず、現場の模様から判断して、

イ、平野から有馬街道を走り川に沿つた金清橋から四、五丁位北へ行つた所

ロ、有馬口を過ぎガードを越え有野町の水無橋から少し行つた附近で人家のある所から二、三百メートル北へ行つた所

この二ケ所が当時運転手と格闘して川へほりこんだ場所とよく似ているので、どちらともはつきり言えなかつたが、後からよく考えてみ、今日共犯の下山とも会つて話してみると、やはりこの事件現場は有馬口まで行かなかつたのが本当で、昨日私らが案内した場所のうち、神戸の平野に近い方が本当の場所のように思う。また自動車乗捨場所は附近の様子が全く変つて分り難くて困つたが、あの新しい洋館の附近に間違いない」旨供述し、同録取書末尾には右記載内容に相違ないとして署名指印している事実。

4、小林成司とその父、及び大塚の昭和三六年一〇月一六日対談録音テープを録音機により再生聴取すると、小林は父に対し、「悪いことしたんやから仕方がない。皆の前で言うのは悪いけど、謝つてほしい。先方の親にもよう言うてほしい。何年前か、警察で言うたことなしに、したいうことには間違いない。自分が悪いことやつたことはもう間違いはない。お父さんからお母さんにもよう言うてほしい」旨の供述をしている事実。

5、奥幸夫の大塚に対する第一回口供録取書によれば、昭和三六年一〇月一三日大塚私立探偵社において奥は大塚に対し、「昭和三二年三月初頃小林、下山と三人で神戸からの帰り這、タクシーを停め有馬までと客を装つて乗り有馬街道で自動車強盗をした。その後約一週間経つてまた三人で二回目の自動車強盗をした。同年五月中頃警察に捕つたが、最初の事件だけ取調べられ、二回目の事件は取調がなかつたので分らずに済んだ。その二回目の事件というのは、小林、下山と三人で福原で遊んだ帰途、楠町六丁目の交差点の少し上の方で自動車を停め有馬までと言つて乗り、有馬の手前の有馬口から有馬の方へ曲りガードを越したところにある橋を過ぎて車を停めさせた。そして三人で運転手を自動車から引きずり降し三人で袋だたきにしてその道に沿つて流れていた川へほりこんだ。そして自動車を奪つて小林が運転し三田から宝塚に出て大阪へ逃げ、その自動車を乗り捨てた。この件について今から話を録音する。時間や細かい事については多少思い違いがあるかも知れないが、やつた事は間違いない。この件で徳本という人が犯人と間違われ無実の罪で神戸拘置所に入つていたのは間違いない。自分が拘置所で徳本と初めて会つた時下山と見違えた位、下山と徳本とがよく似ているから被害者の運転手が徳本を見て犯人だと言うのも無理もないことと思う」旨の供述をし、同録取書末尾には記載内容に相違ないとして奥が署名指印している事実。

6、奥幸夫の大塚に対する昭和三六年一〇月一三日付供述の録音テープを録音機により再生聴取すると、奥は大塚に対し、「自分は昭和三二年三月初頃小林、下山と三人で自動車強盗をして有馬署に検挙され裁判で懲役二年六月、三年間執行猶予になつたことがあるが、もう一つかくしていた事件がある。それは右の事件から一週間程後の三月一〇日前後だつたやろうと思う。三人で神戸へ遊びに出た帰り午後一〇時頃、帰るのに電車賃もなし、どうしようと話していたら、小林が言い出したんじやないかと思うが、自動車強盗をやろうかと相談がまとまつた。車に乗つたところははつきり覚えてないが、楠町六丁目の交差点を少し上へあがつたところで平野を向いて走るタクシーを停めて三人乗りこんだ。助手席に自分、運転手の後の客席には小林、下山は小林の左側に座り有馬までと行先を言つたように思う。平野から有馬の方にとまらずに走り、有馬口から少し入つてガードを越し橋を渡つて人家も何もないところで停車させた。

自分は手は出さなかつたが、小林と下山が運転手をつかまえてポケツトから金額は知らないが金をとつたように思う。それから自分も加つて三人で運転手をかいて外へほり出し、三人で殴つたように思う。運転手も抵抗し助けてと言つたように思う。そして運転手を三人で川へほりこんだように思う。それから自動車を小林が運転して逃げた。自分は助手席、下山は後の席だつた。有馬から三田を経て宝塚から大阪へ出た。大阪で自動車を乗り捨てたがその場所は分らない。小林が有馬で格闘した時に下駄を失つたとか言つて、片方車に置いていた下駄を持つてはだしで歩き夜が明けてから附近の店ではきものを買つたように思う。それから歩いて阪急の駅まで出て早朝の電車で三宮に帰り、市電で湊川公園に出て神戸電鉄で三田まで帰り皆別れた。自分が三月初めの事件で拘置所に入つている時に運動場で、小林から三月の後の事件で無実の罪であげられた下山とよく似た人が入つていると聞いた。小林は気の毒やからなんとかせなあかんと言つていた。下山によく似たその人から「僕とよく似た者でお前らと一緒にやつた奴がおらへんか」と自分も聞かれたことがある。自分はその人を一目見たときは下山だと思い、ほんとによう似た人が入つて来てるんやなと思つていた。今日話していることは間違いない」旨供述している事実。

7、奥幸夫の大塚に対する第二回口供録取書によれば、昭和三六年一〇月一五日同探偵社において奥は大塚に対し、「一三日に録取書や録音の中で述べた犯行場所について思い違いがあるから訂正してもらいたい。昨一四日自動車で大塚と一緒に行つたが、格闘して運転手を川へほりこんだ場所と思われるよく似た所が二ケ所あつてどつちとも言い切れなかつたが、有馬に近い方は自分ら三人で初めてやつた場所と混同しているように思う。平野を越して箕谷へ行くまでで、ここがよく似ていると言つた場所が正しいように思うので訂正してほしい。事件をやつたのは夜のことであわてていたし、現場に案内して道に沿つて川のある所はあちこちにあるので迷つたが、今言つた平野から箕谷までの間であつたことは間違いないと思う。それから自動車を乗捨てた場所も、昨一四日大阪へのコースをたどつてみてその場所に洋館が建つているので変だと迷つたが、昨日大阪から帰つて録音してもらつたように大体間違いないと思う」旨供述し、録取書末尾には記載内容に間違いないとして署名指印している事実。

8、小林、奥両名と大塚との昭和三六年一〇月一四日対談録音テープを録音機により再生聴取すると、小林、奥とも「前夜の事件についての供述は間違いない。前刑服役後、小林、下山、奥はそれぞれ会つて話合つたことは一度もない。現場へ行つて見れば話しが分りよいし、忘れていたこと気のつくこともあるだろうから、今から事件現場へ案内のため出発する。……実況見分から帰つて来たが、その結果事件現場と思われるところが二ケ所あつて、どつちともはつきりしない。車を乗り捨てた現場は今日実況見分をして分つた場所が昔と違つているが、いろいろ総合して事実と思われる」旨供述している事実。

9、奥幸夫とその兄、及び大塚との昭和三六年一〇月一六日対談録音テープを録音機により再生聴取すると、奥は「自分が口を出したことはないが、事件をやるときは金がなかつた。当時は楠町六丁目ということも全然知らなかつたが、その楠町六丁目から乗つて平野をちよつと上つたところと思うが、そこで車を停め、車内で自分は運転手を殴りはしなかつた。しかし車から降りて三人一緒に運転手をひきずり降し、それからもうカツーとなつているしどうしてやつたのか分らないが、殴つたりはしていないと思うけれども、そうする間に川の中につき落したようになつてしまつた。運転手がいくら金を持つていたか知らないが、後で聞いたら千円余りとかいうことだつた。それからどこへ行こうと決めなかつたが車に乗り小林が運転したように思う。自分は助手席だつた。ずつと大阪まで夜明け前に行つてしまつた。そして阪急か阪神に乗つて帰つたように思う。大阪へ出る途中、三田の療養所の方へは行つてないと思う。当時は三田で勤めていたからそんなところまで行つて道を聞くいうことは常識で考えてもないやろうと思う」旨供述をしている事実。

10、下山四郎の大塚に対する昭和三六年一〇月一四日付口供録取書によれば、同日前記大塚私立探偵社において下山は大塚に対し、「自分は昭和三二年八月自動車強盗事件で懲役三年の刑を受けた。昭和三二年三月初頃、小林、奥と三人で神戸からの帰途、タクシーを停め有馬までと言つて客を装つて乗り、有馬街道で自動車強盗を二回やつた。その中の一回だけ初めにやつたのが分つて有馬署に検挙され懲役三年に処せられたのである。一回目のは三人で運転手の首をしめ殴つて金をとつたが、二回目のは三人で運転手を車から引ずり降し三人で殴つたうえ、道路沿の川にほりこみその車を奪つて逃げたのだが、これは警察でも検察庁でも知られずにすんだ。自分らが一回目の事件で有馬署にあげられたのは昭和三二年五月一七、八日頃で、神戸拘置所に回されたのは同月二三日頃だつたかと思う。自分が判決を受けて一週間か一〇日位経つて独房から雑居房に移された時、徳本と同房になつた。同房になつた当日か翌日かに、徳本が自分に、俺はなにも知らんのに自動車強盗の疑いで入つているが俺とよく似たような人相の男で自動車強盗をやつたような心当りはないか。あつたら教えてくれと言つた。自分は偶然同房の徳本からこんなことを聞かれ、自分らが隠している二回目の事件じやないかと思つてドキツとした。しかしそんな事は言えず、共犯の小林が他に単独で二回程あると聞いていたので、その事だけ話しそれ以外の事はなにも言わなかつた。徳本の話し振りを聞いていると自分ら三人でやつた事件だと気付いたので気の毒だと思つたが、その時は自分らは刑が確定していたので徳本には気の毒だが今そんな事を言い出したら、自分らの方がまた長引くと思つたので話をそらしていた。それ以来徳本やその事件のことが気になる。刑務所から帰つても、心の底からやれやれということがなかつた。

その二回目の事件は、昭和三二年三月一〇日前後と思うが、神戸の福原で遊んだ帰途、連れの小林、奥も金がなかつたので前にうまくいつた経験もあり、三人でまた自動車強盗をやろうという事になつた。午後一〇時か一一時頃と思うが、福原から山手の電車筋を東へ歩き市電の交差点を山手の方へ約一〇〇メートル行つたところで、タクシーをとめ有馬までと言つて三人が乗つた。タクシーは小林がとめたようだ。そのタクシーは自分らと同方向の山手に向つて走つていた。運転手の横に奥が乗り、小林が運転手の直後の客席、自分は小林の横に乗つた。平野から谷上までの間だつたが道に沿つて川があり、そこで小林が運転手にストツプさせ後から首をしめるようにしてとびついた。自分は後から運転手を二回程殴りつけて運転手のポケツトを探つたが金はあまりなかつたように思う。それで三人で運転手を車から引ずり降し三人で殴りあげたうえ、道の左側の川にほりこんでその車をとつて小林が運転して大阪へ向つて逃げた。コースは宝塚から池田、豊中を通り十三の鉄橋を渡り、それから余り遠くなかつたように思うが広い通りからちよつと横道に入つたと思われるところに空地があり、そこへ車を乗り捨てたがはつきりした説明はできない。そこから三人で歩いて阪神か阪急の梅田に出た。梅田に行つた時分に夜が明けたように思う。自分も奥も確か靴だつたが、小林が自動車を乗捨ててから下駄が片方無いとか言つていたように思う。自分はあまり下駄のことを気にとめなかつた。そして神戸三宮から神戸電鉄湊川駅に行き三田まで帰つた。

自分が本当に徳本にすまないと思うのは、自分が拘置所にいる時と姫路少年刑務所から仮出所で出て来てからと二回、徳本の事件で大阪の裁判所の証人に呼ばれ神戸拘置所での徳本との同房での話合いを聞かれたが、自分は悪いとは思いながら徳本をかばおうとせず裁判所から聞かれたことだけを答えた。徳本と同房になつて自分らがやつた事件で徳本が疑われていることがはつきりしたが、自分から進んでそれを言い無実の罪に苦しんでいる徳本を救う勇気は出なかつた。今ではなんとかして徳本に迷惑をかけた償いをせねばならないと思つている」旨供述し、右録取書末尾には間違いないと申立て署名指印している事実。

11、下山四郎の大塚に対する供述の録音テープを録音機により再生聴取すると、昭和三六年一〇月一四日下山は大塚に対し「今読み聞かせてもらつた前記口供録取書はそのとおり間違いない。訂正するところも別にない。徳本にはなんと言つてよいか、本当に申訳けないと心から思つている」旨供述している事実。

12、下山四郎の大塚に対する第二回口供録取書によれば、昭和三六年一〇月一六日前記探偵社において下山は大塚に対し、「自分らがやつた有馬街道の自動車強盗の場所については、今日自動車で案内したとおりである。タクシーをとめた場所は福原から電車沿いに東へ行つた交差点を平野の方へ約一〇〇メートル行つた所で今日写真を撮つてもらつた場所と思う。また運転手を自動車から引ずり降し川へほりこんだ場所は、その時分とは多少様子が変つている様に思うが、平野から谷上までの間で道に沿つて左に川があり、自動車をとつて逃げる時左の方にバラツクかなにか家があつたのでそれを目当てに案内し、今日写真を撮つてもらつた場所は大体間違いないと思う。あの場所から谷上までにそんな場所がないので自分らのやつた場所は現場を通つてみると、あそこより他にない。そして大阪に逃げろ途中、有馬橋を越しガードを抜け五、六軒家がちり三、四丁位有馬に寄つた所は自分らが初めてやつた所である。車を乗捨てた場所は説明して写真を撮つてもらつたが、附近の様子が変つているので確かなことは言えないが、大体間違いないと思う」旨供述し、相違ないと申立て録取書末尾に署名指印している事実。

13、下山四郎とその母及び大塚との昭和三六年一〇月一六日対談録音テープを録音機により再生聴取すると、下山は「一昨日徳本が自分の勤先に迎えに来て話をしたが、自分は今まで隠していた。自分は二度事件をやつている。悪いことやつたことは間違いない。徳本に迷惑がかかつているわけだから、自分からもようあやまるけれども、お母さんからも徳本の親類の人や兄弟の人にあやまつてほしい」旨供述している事実。

以上がそれぞれ認められ、これらを総合すると小林、奥、下山はいずれも徳本吹喜雄が罪に問われた昭和三二年三月一〇日夜の有馬街道での自動車強盗事件は、小林、奥、下山三人組の犯行である旨の自白をしているものと解せられる。

第三、右各自白の新規性

そこで先ず右各自白が刑事訴訟法四三五条六号にいわゆる「あらたな証拠を発見した」ことに当るかどうかを判断する。

徳本吹喜雄(以下徳本と称する)に対する神戸地方裁判所昭和三二年(わ)第三〇八号、昭和三三年(わ)第七二〇号強盗傷人、脅迫被告事件、大阪高等裁判所昭和三三年(う)第一一八四号同控訴事件、最高裁判所昭和三五年(わ)第一四三八号同上告事件各記録(以下原確定事件と略称)及び前記監禁事件記録によれば、

先ず小林成司は、〈1〉原確定事件第一審第七回公判において、徳本の無実の主張の反面真犯人は小林ら三名であるとの主張に関連し、小林成司の検察官に対する昭和三二年九月一九日付、二〇日付、二六日付各供述調書が証拠として取調べられ、〈2〉原確定事件控訴審第九回公判において、小林成司は証人として取調べられているが、〈1〉〈2〉いずれの場合も小林は、昭和三二年三月一〇日の本件犯行を否認し、当日は村の池の工事に出ていて在宅していた旨の供述をしている事実が認められ、

次に下山四郎は、原確定事件第一審第七回公判及び同控訴審第八回公判において、小林と同様趣旨の下に証人として取調を受け、いずれも昭和三二年二月二日の自動車強盗事件で拘置所在監中、同房になつた徳本に対し小林が他にもう一件の自動車強盗を犯してこれを隠していると言つたことはないこと、並びに自分は同年三月一〇日夜の本件発生当時は大阪市内の「玉水湯」に住込で勤めていてアリバイがあり、本件には関係がない旨の供述をしている事実が認められ、

最後に奥幸夫については、同人の供述はそれが書証人証等どのような形態であるかを問わず、原確定事件各審級の裁判所のいずれにも一度も現われていないことが明らかである。

そうすると、小林、下山については原確定事件第一、二審裁判所は、いずれも小林、下山が三月一〇日事件に関係したかどうかにつき当初から関心を持つて審理していたものであり、また上告審たる最高裁判所も職権をもつて事実誤認の有無を調査したことが原確定事件記録上明らかであり、その結果原確定事件各審級の裁判所はその当時の資料による判断として、小林、下山らを三月一〇日事件の犯人と認めていないのであるから、小林、下山が原判決確定後その供述をそれぞれ変更し訴訟外において前の供述をひるがえして、自分らが真犯人である旨の供述をするに至つても、それは証拠方法としては同一であるから一見したところ「あらたに発見された」証拠には当らないのではないかとも考えられる。

しかし「あらたな」証拠の性質種類に関し法は全く制限を設けておらず、また証拠を「あらたに発見する」とは原裁判所に知られなかつた証拠が審理終結後に裁判所に認識可能の状態になつたことを言うのであるから、証拠方法として「あらたに発見された」かどうかの面からばかりでなく、証拠資料として「あらたに発見された」かどうかの点からも検討すべきものと考える。

そうすると、例えば原判決以前に既に原裁判所において尋問を受け供述した証人は、原判決確定後においても証拠方法としては同一であり「あらたに発見された」ものではなくても、原判決確定後訴訟外においてその供述を変更し被告人に有利な供述をするに至つたような場合には、その供述は証拠資料としては「あらたに発見された」ものであると言えるから、小林、下山の前記各供述は証拠資料として「あらたに発見された」ものと解すべきである。

この点から言つて奥幸夫の前記供述は、「あらたに発見された証拠」と解すべきことについては言を要しないであろう。

第四、右各自白の明白性

そこで問題は、右「あらたな証拠」が刑事訴訟法四三五条六号の「明らかな証拠」と言えるかどうかである。そのためには小林ら三名の右各供述が証拠能力があり且つ信用性の高いものであり、原判決の事実認定の基礎となつた証明を覆えすに足るものでなければならないと解すべきことはその性質上当然であるから、この見地に立つて小林ら三名の右各供述に検討を加える。

ところで本件は、有罪の確定判決を受けた被告人が、なお真犯人は他にありと無実を主張し、数年にわたる調査の末それと目星をつけた者達三名を直接自宅に連行したうえ、私立探偵もこれに協力して取調を行つたという、全く特異な事件である。

従つてその取調の結果得られた三名の各供述については、その内容の厳密な検討もさることながら、それに先立つて三名の供述の得られた過程について、先ず慎重な調査を加えるべきものと考える。

一、小林、奥、下山の各自白の任意性

そこで前記監禁事件一件記録によれば、小林、奥、下山三名が順次右のような供述をするに至つた経過は、次のとおりである。

(一)、徳本が小林ら三名を引致するに至るまでの経過

1、小林成司は昭和三二年九月四日自動車強盗事件三件(同年二月二日事件を含む)により懲役五年の刑に処せられ、奈良少年刑務所で服役し昭和三五年一一月仮出獄となつた後は、同月末頃から神戸市兵庫区有野町の土建業前田建設に勤めトラツク助手をしていた。

2、奥幸夫は昭和三二年二月二日の自動車強盗事件により前同日懲役二年六月、三年間保護観察付執行猶予に処せられ、昭和三六年三月頃から神戸市東灘区本山町のいすず自動車山本工作所に通勤していた。

3、下山四郎も昭和三二年二月二日の自動車強盗事件により前同日懲役三年に処せられ姫路少年刑務所で服役し、昭和三四年五月頃仮出獄となつた後は、昭和三六年二月末頃から大阪市西淀川区佃町の新井運送株式会社に勤務していた。

4、これより先、小林は昭和三二年七、八月頃二月二日事件等で神戸拘置所在監中、同様在監中の下山が徳本からもう一件やつたのと違うかと聞かれたと伝え聞き、またその後同年九月一九、二〇、二六日には検察官から取調べられたり、大阪高等裁判所で徳本の三月一〇日事件で証人尋問を受けたことがあつて、徳本の事件も自分らがやつたのではないかと疑われていることは充分承知していた。

5、奥幸夫も二月二日事件で神戸拘置所在監中運動に出た時当時は名前を知らなかつた徳本から何の事件で入つて来たかと聞かれ、三人で有馬街道で自動車強盗をやつたと答えた、その後もう一回運動に出た時もやはり徳本からお前ら三人の中で僕の顔によく似た者がおらんかと聞かれ、ひよつと相手の顔を見たら下山とよく似ていると思つたので、そう言えば良く似ていると答えたことがあつた。

6、同様下山四郎は二月二日事件で判決を受けた後の昭和三二年九月頃、神戸拘置所の雑居房で徳本と五、六日同房になつた際、徳本から事件のことを聞かれ有馬街道の唐櫃での自動車強盗だと答えると、もう一件の自動車強盗を知らんかとしつこく聞かれ、自分は一件だけしかやつてないが小林が自分らと別に未だ二件強盗をしたと話をした。すると徳本に「もう一件やつただろう。その時酒のんで分らんことにしてやつたと自首してくれ。自首したら拘置所の人に頼んでなるべく早く帰れるようにしてもらう。差入れも一切してやる」等と言われ、更に「隠すと今度しやばへ出たら、かたわにする。うちのものもかたわにしてやる、たゞではすまん」等と言われた。

7、一方、徳本は昭和三六年九月一四日本件三月一〇日強盗傷人事件が最高裁判所において上告棄却となり同月二五日懲役七年の刑が確定したが、その間自からあるいは実姉徳本あや子、私立探偵大塚義一、兵庫県高砂市議会議員樋野忠次らを通じ種々調査を重ね、特に大塚から真犯人は小林らに間違いないだろうとの意見も出されるに至つた折柄、上告棄却により折角目星をつけた小林らの調査もこのまま服役することになつては完遂することができなくなると焦慮し、大塚義一に小林らの取調を依頼してみたところ、大塚から「相談したいことがあると、うまい口実を使つて小林に事務所に来てもらえないだろうか。来れば事件の内容については自分が聞いて証拠固めをしてやる」旨の返答を得、ここに直接小林ら三名に当つて真相を問いたゞし必要な処置を大塚に頼もうと考えるに至つた。

また、徳本の実兄徳本幹雄、義兄徳本義行も従来徳本から三月一〇日事件の無実の訴をきき前記諸調査の結果も耳にするに及んで真犯人は小林らと考えていたが、昭和三六年一〇月初頃徳本の実父徳本新助方に徳本、幹雄、義行らが数回にわたつて集まり小林らの処置について協議を重ねた末、徳本から「小林らをこれから調べるが、小林が主犯だからあいつを先に連れて来て口を割つたら、下山と奥はおとなしいからわけはない。白状するまでやる。白状したらその証拠固めは大塚がやつてやると言つている」旨の発言があり、幹雄、義行もこれを了承して協力の意思を固め、先ず主犯格と目される小林を連行することとなつた。

8、神戸市生田区楠町二丁目二五番地で私立探偵社を営む元警察官大塚義一は、昭和三四年九月頃当時、三月一〇日事件で保釈出所した徳本から無実の訴を聞き事件の調査を依頼されて協力を約して以来、各方面に調査を続けていた。昭和三六年三月頃大塚は徳本のアリバイ調査のため名古屋市へ中島慶子を尋ねる前、徳本が持参した三月一〇日事件の記録の中から、被害運転手稲村清、犯人目撃者谷口勇、小坂喜代治らの警察、検察庁での各供述調書等を読んで検討を加えた。また徳本に協力し調査に当つていた兵庫県高砂市議会議員樋野忠次の作成したメモ(監禁事件昭和37年押第342号の二七の八。内容は二月二日事件と三月一〇日事件の犯行年月日、犯人の乗車場所、犯行現場、犯行の手段方法等を記した事件一覧表)をその頃大塚は徳本から入手した。以上からみて大塚は昭和三六年一〇月頃当時、既に三月一〇日事件の犯行年月日、犯人の乗車場所、犯行の場所、手段方法等につき予め詳細な予備知識を持つていた。

9、徳本は昭和三六年一〇月一一日朝、内妻高田信子を伴い予め調査しておいた小林の勤務先前田建設に果して小林がいるかどうか下調べのため、神戸電鉄二郎駅で下車、信子を前田建設にさし向け確かに小林が勤めていることを聞き出してその日は帰宅した。

(二)  昭和三六年一〇月一二日の経過

1、翌一〇月一二日昼間、徳本は再び信子に前田建設へ小林の出勤を確かめさせ午後五時過に行くから待つていて欲しい旨小林への伝言を頼んだ。

午後三時頃徳本は平松忠夫運転の乗用車を雇い信子と同乗出発、神戸電鉄田尾寺駅前で停車、信子に小林に会つたら「下山の神戸の親類の者だが、下山四郎が田尾寺駅で待つているから来て欲しい」と言つて田尾寺駅まで連れ出して来るように言い含めた。

2、信子は同日午後五時頃前田建設に小林を尋ねて右の旨を伝えたところ、小林は信子とは一面識もなかつたが田尾寺駅まで信子について来た。

3、田尾寺駅前に駐車して待つ徳本は車を降り「小林君達者か」と言つて小林に近づき、「話があるからちよつとうちの事務所まで来てくれ」と小林を車に乗せて神戸に向つた。

4、同日午後六時頃神戸市生田区楠町二丁目一八番地の六の徳本方に到着、徳本は信子に来訪者があつても家に入れないよう施錠させた。

5、同日午後六時半頃から徳本は自宅四畳半の間で、翌一三日午前〇時頃までの間小林に対し、三月一〇日の本件自動車強盗事件当日の行動を質問し、夜も更けてもう家へも帰らしてもらえないと沈黙してしまつた小林に、「三月一〇日はどうしていたか言われんのか」と次第に語調激しく大声で詰問した。

6、これに対し小林は徳本に三月一〇日に自動車強盗事件はやつてないと否認し、やつている、やつていないと押問答を繰り返すうち、徳本はいきなり立ち上り着物の袖に両手を入れて着物の前をパツトひろげて見せた。すると懐の中に拳銃を入れているのが見えたので、小林は非常に驚いた。

7、これと前後して、徳本はその部屋の押入から巻いてあるロープを持ち出し、小林の前に中腰になりながらロープを長くのばし、「ここまで来た以上、家へ帰ろうと思つたらお前がわしを殺して逃げるか、わしがお前をやつてしまうか、どつちかやらなきや帰れない」と言つた。

8、その他、徳本は小林に部屋の敷居の黒いかたを示し「これは血や、こういう痛い目にあわんならん馬鹿もおるんや」と言つたり、「自分の身代りに刑務所へ行けというたら行く若い奴もおるんや」等と、徳本が組関係者かと思わせるような話を小林にした。

9、それから徳本は紙と鉛筆かボールペンを小林の前に置き自動車強盗をやつた順序を書けと要求し、先ず乗車場所から聞き始め、小林は二月二日事件の乗車場所だつた楠町六丁目の交差点を図示した。また小林は二月二日事件の時のように、運転手の後方客席に自分が、その横に下山が、助手席に奥が座つたと答え、犯行場所も二月二日事件の有馬街道の有馬口を越えた所と説明した。

10、続けて徳本は小林に、「運転手をどうしたか。お前ら三人で運転手を川の中にほりこんでしまつたんじやないか」というようなこと、また犯人が自分で自動車を運転して逃げたようなこと、更に「車で走つていて途中片方ないものはなかつたか。はきものの片方なかつたやろ、なにはいていたか、下駄と違うか、格闘していた時にどこかへやつてしもたんと違うか」等と尋ね、小林は相づちをうつたりそれに合う答をした。

11、引続き徳本が小林に、「車でどこへ走つたか」と尋ね、小林が有馬へ行つたと答えると、徳本が「三木へ行く道、人に聞かなんだか」、小林が「そんなん誰も言わへん」、徳本が「まあ、ええわ」との問答のあつた後、徳本が車で大体大阪の方へ走つたようにヒントを与え、小林は大阪へ行くには車なら宝塚、豊中を通らないと出られないと考え大体その道を書き、大阪市内に入つて二、三〇分走つて車を捨てたと答えた。

12、以上、一応の調べが終つた後、徳本は信子に便せんと封筒を持つて来させ、自分の言う通りに書けと小林に手紙を書かした。文面は「大阪にて、ちよつと用事ができたので家をあけますが心配なく、前田建設にも少しの間休むと言つて下さい。成司」というもので小林は父宛にした。徳本はこの手紙を信子に渡し翌朝人に頼んで大阪駅から投函させるよう言いつけた。

13、その後徳本は小林に「今晩はここに泊つてもらう」と言つて午前二時頃、四畳半の間に小林と並んで寝た。

(三)  昭和三六年一〇月一三日の経過

1、一三日朝、徳本は信子を使つて大塚に、昨夜小林を連れて来たら白状したが、何時頃連れて行つたらよいかと連絡させ、大塚の午前九時頃までに小林を事務所の方に連れて来るようにとの返答を得て、信子は直ちに徳本にその旨を伝えた。

2、徳本は大塚の右指示に従い、午前九時頃近くの大塚私立探偵社に小林を連行した。

3、徳本はすぐ社長室に入り、小林が後から入ると、大塚と徳本が何か話をしていたが徳本は部屋を出た。その頃幹雄も探偵社にやつて来て大塚に対しお世話になりますとあいさつをした。

4、大塚は小林に対し、「ここは警察でも検事でもない。自分は私立探偵だから質問に答えてもらいたい」と前置きして小林の住所氏名を聞いた後、既に服役した自動車強盗事件を聞いた。それから更に大塚は、「三月一〇日の事件で無実の罪で泣いている人がいる。その事件を隠しているのだつたら、言つて、無実で泣いている人を助けてやつてくれ」と三月一〇日事件のことを聞き出した。一旦部屋を出ていた徳本がまた入室し、大塚が下書きをしている紙を見て「後で分るこつちやさかいに……」と言つて出て行つた。社長室の入口のガラス戸に人影が映り、小林には徳本のように思えた。社長室の隣りの事務室には徳本、幹雄、義行が詰めていた。幹雄は昼過頃までいた。

5、小林は大塚に三月一〇日事件につき最初車に乗つた場所からずつと最後まで一通り聞かれ、前夜徳本方で図面も書き一通りの説明もしているので、大体その通りに経過を説明した。

6、午前中で下調べが終り昼食後、第一回口供録取書が作成され小林はこれに署名指印をし、また取調の模様を録音にとられた。

7、午後五時三〇分頃、大塚の取調終了後徳本は小林を連れて自宅に帰つた。

8、これより先、一三日午前中大塚探偵事務所に集つた徳本、幹雄、義行は大塚を交え、小林の次には奥を、更に下山を順次連行して取調べ証拠固めをし現場検証等も行い、また小林らの親たちも呼び寄せて謝まらせることなどを打合せ、当日は先ず奥を連行して来ることとし、これには幹雄と信子が当ることになつた。

9、かくて幹雄は信子を伴い平松忠夫運転の乗用車で同日午後出発し、奥が神戸市東灘区本山町のいすず自動車本山工場にいることをつきとめ、午後五時頃右工場に到着、附近で信子が下車して工場を訪ね、奥に面会を申込んだ。

10、奥は応待に出てみると、相手の信子が全く未知の若い女性であるのに、「五分か一〇分ですむから、ちよつとそこらへんの喫茶店まで来てもらいたい」との話なので、なにかおかしいと思い仕事中だと断つた。しかし信子が話しながら工場の門から西の方へ出て行くので、奥も断りを言いながら一緒に歩いて行くと、後から乗用車が来て横に停り、当時はもちろん未知の幹雄が帽子を被り少し茶色つぽい上衣を着て降りて来た。

幹雄も「五分か一〇分程でいいからちよつと来てくれ」と何回も言うので、奥は工場に引き返し会社の責任者前田幹夫に相談し前田が幹雄と話し合つたが、本人でなかつたら話ができんとの答に前田も遂に外出の許可を与えた。幹雄も信子も用件は全然言わず、ちよつと来てくれと言うだけで、何か少し恐い感じがした奥は、会社の友人にも理由を話し若し帰つて来なかつたら連絡してくれと言い置いて出かけた。

11、奥は直ぐすむものと思つて幹雄らの車に乗つたが車はなかなかとまらず、車中で行先を尋ねたが「もうちよつとや」その答だけで行先も分らず、宝塚を午後六時三九分の汽車に乗つて帰宅するので、間に合わないといかんから帰してほしい、早くしてほしいと頼んだが、車はそれにかまわずドンドン進行した。

12、半時間以上も走つて徳本方附近で停車し幹雄と信子が降りるのと入替りに、徳本が乗りこんで来て、奥に元気でやつとるかと聞いた。しかし奥はその当時新たに乗りこんで来た徳本も誰であるか分らなかつた。そしてまた約一〇分車が走つて、午後六時頃徳本は神戸市兵庫区荒田町一丁目九番地の文化住宅二階の実父徳本新助方に奥を連れこんだ。もちろん奥の全く知らない家である。

13、新助方の部屋で正座する奥の正面に徳本はアグラをかき、「僕の顔を覚えとるか」と尋ねた。奥はその顔を見て以前拘置所に入つていた時、一、二度出会つた人だと分つたがその氏名は未だ分らなかつた。

14、徳本は「お前、ここに連れて来た理由が分つてるか」と尋ね、奥の「分りません」との返事に、「お前、ここまで来て未だ嘘をつく気か」と何回も怒鳴つた。奥が「わからしません」と答えると、徳本は「ここまで来て帰られへんぞ。帰ろう思うんやつたら、これでわしを殺して出え」と、片膝たてて右手で帯のあたりを押えて大声で言つた。

15、すると隣室から吹喜雄の父新助(もちろん奥は未知)が出て来て奥の横に座り、「わしはこない年とつとるけど、電話一本かけたら若いもんがいくらでもおるから、まだお前そんな嘘つくんやつたら電話かけて呼んでもええぞ」と言つて隣室に帰つた。

徳本も「お前なんぼ隠しとつてもあかんぞ。小林も言うとんぞ」と言い、奥はそう言われて二月二日事件の事と考え、「やりました」と答えた。

16、すると今度は四、五〇歳の女性がお茶を持つて入室して来たが、徳本に対し「そないガミガミ言わんでよい。もう少しおだやかに話したら分るんやから」と言つた。徳本はその女性に「小林のテープをこいつに聞かしたんねんや。取つて来てくれ」と言い、その女性は部屋を出た。

17、奥が二月二日事件の話をすると、徳本は「それはお前らがやつたやつや。もう一つやつとるやろ」と言い、奥が「わかりません」と答えたが、徳本は「小林らと三人でもう一つやつとるやろ、小林はもう言うとんやぞ。お前もええかげんに白状したらどうや」と怒鳴つた。奥は「すみません」と答えた。

18、このようにして約三〇分経つた午後七時頃、徳本は奥を連行してかねての打合せどおり大塚探偵事務所に到着、大塚に奥を連れて来た旨伝えると、大塚はご苦労さんと答えた。この時徳本は奥に、「もう今まで隠しとつたことを詳しいに話して、謝つたらええから」と言つた。

19、奥は社長室で大塚と机を挾んで対座し、大塚が「自分が大塚探偵社の社長の大塚や、ここは警察ではないし遠慮することないから、正直にこれまでかくしておつたことを言うてくれ」と口を切り、奥の経歴をきいた後、昭和三二年頃お前ら何かやつてないかと聞いた。

20、そこで奥は二月二日事件のことを話したが、大塚が「それは前の事件やろ、もう一つ後に、三人でもう一回やつとるやろう、一週間か一〇日前後にもう一つやつとるやろ」と言つた。奥はすみませんと答えた。

21、奥が問題になつている事件のことを、日などもちぐはぐな答をしていると、大体一時間位経つた頃大塚が「ちぐはぐなことを言うようなら小林の声を一ペん聞かしたる」と言つて、先に収録した小林の録音テープを再生して聴かせた。

22、小林の録音テープによると、奥は日がはつきり聴きとれず、二月一〇日頃とも三月一〇日頃とも言つてるように思えたが、「楠町六丁目から下山と奥と三人でタクシーに乗り、行先を有馬と言つて有馬街道の二月二日にやつた現場附近で停車させ、三人で袋だたきにして運転手を川へほりこみ、その足で車をとつて大阪の方へ逃げた」というようなことを小林が言つてると聴いた。

23、一方、一旦徳本方に帰つていた小林を午後八時頃再び徳本が連行して、大塚探偵社に到着し、右のように小林の録音テープを聴き終えた奥と社長室で大塚を交え対面した、しかし特に事件の話もせず大塚から両名に明日実地検証に行く旨の話があり一〇分か一五分で終つた。

24、その頃社長室の隣の事務室で、徳本と義行が奥と小林を監視していた。またその頃、義行はいずれも沖仲仕をしている河野こと田窪駿一、田中辰夫にも、徳本の疑われていた自動車強盗事件の真犯人を捕えて来てるから、逃がさないよう見張の手伝を依頼し両名の承諾を得た。そして田窪は、奥と対面を終えた小林が徳本に連行され徳本方に帰つた午後八時三〇分頃から翌一四日朝にかけ、小林を監視した。また田中は午後九時頃から幹雄と共に大塚探偵社事務室で、徳本、義行に加つて奥の監視を行つた。田中は奥が取調途中用便に立つた際は便所にまでついて来た。

25、この間大塚探偵社では、社長室で大塚の奥に対する取調が続行されており、大塚は奥に「小林がああいう風に言つてるから正直に答えてくれ、いつやつた」と尋問、奥が二月一〇日前後と答えると、大塚が「日はそれでもかまへん」と言うので、奥は日ははつきり言わずに大体二月二日事件の時の模様を思い出し、また小林の録音を聞いていたから、録音どおり小林、下山と三人で一緒になつて運転手を殴つたりほりこんだりしたと答えた。

26、小林の録音テープを聴いてから一時間半位して、大塚が調書の下書きをとり更に今から録音するから今まで言つたことをもう一回はつきり言つてくれと奥に要求し、奥の話を録音した。

27、奥の録音が終つてから、大塚が口供録取書を作成し「録音とつたことを書いとるから、読まんでも分るな」と言つて奥に署名指印させた。

28、その頃は一四日の午前〇時頃になつており、大塚が奥に今日はもう遅いから帰つて休んでくれと帰したが、事務室に待機していた幹雄らが奥を義行方まで連行し、徳本が奥に今晩はここに泊れと言つて帰つた。

29、これより先一三日午後一一時頃、入本武は義行から予て話していた徳本についての自動車強盗事件の真犯人が捕まつたから、逃げないよう見張り協力を依頼されて承諾し、義行方に連行された奥を一四日午前〇時頃から監視に当り、その際義行に明日現場検証に行くが逃げないようにと見張を依頼された。

(四)、昭和三六年一〇月一四日の経過

1、午前九時頃、小林は徳本方から実地検証に行くからと、徳本、田窪、田中に連れられ、奥も義行方から同様義行、入本に連れられ、両者合して大塚探偵社に到着し、小林、奥を社長室で大塚が取調べ、隣室で徳本、義行、入本、田中が監視をした。

2、この際の三者の対談を前記のとおり録音した。

3、午前一一時三〇分頃二台の車に分乗し、大塚探偵社から楠町六丁目を経て有馬街道を兵庫区有馬町有馬まで進み、更に宝塚市、川西市、池田市、豊中市を経て、大阪市大淀区中津南通四丁目二五番地山口機工株式会社附近に到着、その後大塚探偵社に午後七時頃帰着。この実地検証は大塚のほか、徳本(探偵社から有馬まで)、義行、田中、入本が同行し小林、奥の行動を監視した。

4、大塚探偵社帰着後、社長室で大塚が実地検証の結果につき、更に小林、奥を取調べその模様を録音した。この時隣の事務室には、義行、田中、入本が待機監視した。

5、午後八時頃右取調が終り、小林、奥は義行、田中、入本に連れられて幹雄方に帰つた後、奥はそのまま幹雄方で翌一五日午後二時頃まで、義行、入本、幹雄に順次監視され、小林は午後九時頃吹喜雄方に引取られ、田窪及びその頃徳本から田窪ら同様監視を依頼され承諾した沖仲仕の谷本美典に翌一五日午後二時頃まで順次監視された。

6、ところで、前日一三日夜前記のように大塚探偵社での奥の取調終了後、大塚は幹雄に対し「明日小林と奥を連れて現場検証に行くが、別に下山を連れて来てくれ」と指示した。信子も一四日朝、徳本から自宅で他の者に聞えないように「幹雄と一緒に下山を呼出して来い」と指示された。そこで一四日午前一一時頃、幹雄、信子、田窪三人で三田の下山宅へ出向いたが、下山の母らから下山が大阪の新井運送に勤めていると聞き、直ちに大阪に回つて探し当て、下山が午後八時頃帰つて来ることを確かめて、午後六時頃一旦神戸に帰着した。

7、午後七時過頃再び幹雄、信子、田窪三人が平松忠夫運転の乗用車で出発、午後八時頃新井運送店附近に到着、信子が一人で運送店に下山を訪ねて面会を申込み、出て来た下山に「ほんのちよつと用事があるから来て下さい」と門外に誘い出した。

8、信子に従つて下山がついて行くと、待機している乗用車附近で幹雄が下山に、「ほんのちよつと五分か、五分もかからん、三分ほど用事があるからちよつと来てくれ」と話しかけた。下山が用件を尋ねるが幹雄は、「ちよつと来てもらつたら分る」と答えるだけで下山の肩を抱くようにして自動車に乗せた。車内にいた田窪の服装は真黒の背広に真黒の帽子姿で、下山にはやくざ風に見えいい感じがしなかつたし、信子も幹雄も田窪も下山にとつては当時全く未知の人間であつた。

9、車は一路神戸に向い、車中に、三回下山が行先を尋ねたがその都度幹雄が「ついそこまで」と答えるだけであつた。車の後部客席の真中に下山、その両側に幹雄と田窪が座り、助手席には信子が乗つていた。

10、車は徳本方に到着して信子と田窪が降り、入替りに徳本が乗りこみ、奥同様実父新助方に到着、屋内に連れこんだ。幹雄は徳本の指示で、大塚探偵社に下山を連行した旨を伝えた。

11、新助方で徳本は下山に対し、「ここへ来て大体のこと分つておるから、これから社長のところへ行つてほんとのことを言つてくれ。君も男やし、わしも男や。隠さずにうち明けてくれ」と言つた。下山はここで初めて以前神戸拘置所で話のあつたことだろうかなと思い、「自分は知らん」と答えたが、徳本は「ここで言うてもしようがない。社長のところでほんとのことを言つてくれ」と言つて、午後九時頃大塚探偵社に下山を連行した。事務室に義行のほか二名ほどが待機していた。

12、大塚が私立探偵と名乗つて社長室で早速下山の取調を始め、「君もここへ来たことはもう十分わかつているやろうと思うが、これから自分の言うことに対し隠さんと言つてくれ、三人で自動車強盗をやつたことを説明してくれ」と言つた。

13、そこで下山は二月二日事件の説明をすると、大塚が「後も先もごつちやにするな」と立つて机をたたいて少し大きい声で怒鳴りつけ、また「ここまで来て隠すんか」と二、三回座つたままで怒鳴つた。

14、下山はこれに対し知らん知らんと答えていたが、大塚の「君がやつたろう」との問に遂に「はあ、やりました」と答えた。

15、大塚が下山の話を目の前で書き出して前記口供録取書を作成し、読み聞かせた後下山に署名指印させた。時間は一五日の午前二時頃であつた。

16、大塚の取調中、隣の事務室には徳本、義行、更に午後一一時頃からは幹雄も加わり、下山を監視した。

17、取調終了後、義行と幹雄が下山を探偵社から義行方まで連行し、義行の監視下に下山を宿泊させ、同日午前一一時頃からは谷本も監視に加わつた。

18、また、下山の取調後、大塚は「明日小林の父を呼んで来て会わす」との指示を幹雄に与えた。

(五)、昭和三六年一〇月一五日の経過

1、午後二時頃、下山は義行方から谷本に連行され大塚探偵社に行き、大塚から明日現場検証に行くからと案内を求められた。その頃事務室には小林が田窪に連行され、奥が田中に連行されて来ており、下山と小林、奥はこの時初めて顔を合わせたが全然話をする機会はなかつた。

大塚が奥を再び主として犯行場所に関し取調べ、前記のような第二回口供録取書を作成し、奥に署名指印させた。大塚は更に小林をも同様取調べ、前記のような第二回口供録取書を作成し、小林に署名指印させたうえ、前夜大塚より指示を受けていた幹雄が午後五時頃小林の父を探偵社に連れて来たので、社長室で大塚が小林と父を交え対談しこれを録音した。

またこの間、下山は徳本に白カツターシヤツを着るようすすめられ、探偵社前で大塚が下山と徳本を並ばせ、また下山、小林、奥を並ばせて写真を撮つた。

2、この間において大塚探偵社には、徳本、義行、田窪、田中、谷本が集り、午後五時頃からは幹雄も加わつて、下山ら三名の行動を監視しており、午後六時頃奥は幹雄、谷本に幹雄方に連行され、下山も義行、田中に義行方に連行され、小林は午後七時半頃徳本、幹雄、田窪に徳本方に連行され、それぞれ監視下に宿泊した。

(六)、昭和三六年一〇月一六日の経過

1、奥は幹雄方で朝食後、幹雄に会社を休んで連絡しないと怒られるから一回電話させてくれと頼むと、幹雄が奥を近くの公衆電話まで連れて行つた。その際谷本も同行した。奥が幹雄にどう言つてかけたらよいかを尋ねると、幹雄がもうしばらくここにおるからと言うてかけろと答えた。奥は会社の電話番号を知らず幹雄にかけてもらつた。幹雄は責任者の前田に電話口に出てもらい、奥がもうしばらくこつちにおるからというようなことを言つていた。それから会社の山本所長が電話口に出て幹雄と奥が交替し、奥が山本にどないしとるんやと尋ねられ、「すみません、もうしばらく休ませてほしい」と答えると、更になんで休むのかときかれた。それで奥が幹雄にどう返事しようかと聞くと、幹雄がなんとかええこと言うとけと言うので、奥は山本に「胃が痛いから友達の家で休ましてもらつている」と答えた。山本は重ねて今どこにいるかと尋ね、奥は幹雄に現在地の住所を聞き、言われたとおり荒田町三丁目の徳本幹雄の家にいる、直ぐ帰るからと答えて電話を切つた。その後奥は徳本方に連行され、そこで前夜から宿泊していた小林と共に、午後四時頃まで徳本、田窪、谷本に監視されていた。

2、一方、下山は午前九時頃義行方から義行、田中に連行され大塚探偵社に行つたが不在のため、神戸市長田区六番町一丁目五四番屋敷の大塚の自宅に連行された。既に徳本も来ていて大塚と話をしており、大塚が予め連絡していた産経新聞記者福岡義彦も到着し、幹雄が手配した平松忠夫運転の乗用車に、大塚、義行、田中、福岡、下山が同乗して出発した。福岡記者の身分を誰も明かさなかつたので、下山は大塚の秘書だと思つていた。

3、午後四時頃までかかつて、一四日に行つた実地検証と同一コースを走つて大塚探偵社に帰着したが、この間義行、田中が下山を監視した。

4、帰着後直ちに大塚が下山を取調べ、主として犯行場所、自動車乗捨場所について第二回口供録取書を作成して下山に署名指印させ、引続き取調り模様を録音した。更に幹雄が手配して連れて来た下山の母を下山に会わせ、社長室で大塚と下山、その母の対談を録音した。

5、一方、徳本方で監視されていた小林と奥も、午後四時頃谷本、田窪に連行されて探偵社に到着した。また前夜大塚から奥の親を連れて来るよう指示されていた幹雄が、下山母子の対談終了後大塚からの連絡で、奥の兄を探偵社に案内して来た。社長室で大塚が奥とその兄を交え対談し、これを録音した。午後八時頃までかかつたが、その間探偵社事務室には徳本、義行、幹雄、田窪、田中、谷本が待機し、小林ら三名を監視した。

6、これで大塚の小林ら三名に対する取調を終え、探偵社から幹雄方まで徳本、義行、幹雄、田窪、田中、谷本が三名を連行した。

以上一連の事実を認めることができ、右認定を覆えずに足る証拠はない。

(七)、加えて、徳本の昭和三七年一月二〇日付司法警察職員に対する供述調書中の、「私達がこのたびのことを決行するについては、前もつて実父新助をはじめ兄幹雄、義行ら親兄弟が相談のうえやつたのである。決行に先立ち父新助から『生はんじやくな心持ちではいかん。戦争と同じことだからよいかげんな気持でやつたのであれば、やらない方がましでむしろ裁判所の判決に従つて服役すべきだ。本当に正しいと信じてやるからには命がけでやらなければいかん』と言つて、服役するか命がけでやるかのいずれを選ぶべきかの決心をきかれたので、私達は結局やることに話がまとまつて実行したわけである」との供述、また義行の同年二月七日、二三日付検察官に対する各供述調書中の、「九月中旬から一〇月初めにかけて、二、三回新助方に、徳本、幹雄、義行、新助夫婦が集まり協議した。その際徳本が『真犯人をつかむには自分でそれが九分九厘間違いないと思つても、証拠をつかまねば駄目だ。そのためにはその人間と生きるか死ぬかの線まで行かねばならない。小林が主犯でかんじんな奴やから、あいつさえ白状したら後はわけはないと思うが、そう簡単に相手が白状するものではない。大塚先生は死ぬか生きるかの境まで行かんと白状するものではないと言つておられる』と言つていた」との供述によると、本件決行に当つての徳本ら一族の並々ならぬ決意のほどが如実に窺われ、従つていよいよ徳本らが実行を開始した昭和三六年一〇月一二日から一六日にかけての、徳本をはじめその一族及びこれへの協力者達の空気は緊張その極に達したものであつたことは推測に難くない。

(八)、右各自白の任意性の判断

右のような空気を背景にした右一連の事実によれば、徳本は直接小林、奥、下山三名を神戸市内の自宅または実父宅に連行するに際しては、三名の勤務先を予めつきとめたうえ当時内妻の高田信子なる若い女性を呼び出し役に使つているのであるが

〈1〉 小林の場合には午後五時頃明らかに小林を安心させるよう下山の名をかたつて呼び出し、神戸電鉄田尾寺駅前で待つ自分のもとまで誘い出す方法をとり、小林に「話があるから事務所まで来てくれ」と告げている。この時の状況について小林は、「駅前附近に下山の姿は見えないし、これは騙された、以前証人に呼ばれた徳本事件のことで来たと思つたが、わざわざこんな田舎まで車で来ているだけに恐い気がして、附近に人もいないし薄暗いし、断わればただではすまないと思つた。しかし行つたら直ぐ帰れるだろうと仕方なく車に乗つた」と供述するが、この心理は十分に理解できるものと言うべく、前触れもなく突然の徳本の出現に、自分が三月一〇日事件の犯人でないかと疑われていることを知つている小林は不安の気持を抱いたと認められる。この小林に対し徳本方到着後(当時小林は誰の家か知らない)、前記第四の一の(二)5、6、7、8で認定のとおりの徳本の行動は正に小林の生命身体に対する脅迫行為と言うべく、この脅迫を交えた徳本の深夜に及ぶ取調が行われたため、小林は恐れて抵抗力を失い最初否認していた三月一〇日事件の犯行を認めるに至つたと考えられる。加えて取調後更にしばらく家に帰られない旨の手紙を徳本に書かされる事態となつては、全く孤立無援の小林は容易ならぬ空気を察知し、行先何が起るかという不安と恐れを抱いたと認めるに充分であり、いかに小林が過去に凶悪な自動車強盗事件を犯し服役した前歴を持つ男ではあつても、一個の人間としては右のような心理に陥ることは敢て異とするに足りないと言うべきである。

この点について、徳本方附近は記録上明らかなとおり住宅密集地域で壁一つ隣は他人の住宅でもあり、環境自体からして前認定の如き脅迫行為などが行えるかとの疑問も起きようが、しかしながら如何に住宅密集地域であつても一度屋内に入れば、たちまちそこは密室と化し室内の模様は容易に外部に洩れるものではないし、また見知らぬ人家の一室に連れこまれた人間の心理として声をあげて助けを求めることなど身辺に危険を感じてできるわけのものでない。また近隣の者も世間一般の常として他人の家の中の出来事には無関心であるか、あるいは少々怒鳴り声が聞えても関わり合いのないようにと容易に立ち入つて来ないのが普通であつて、本件の場合も他人の邪魔が入る余地も先ず考えられないから、徳本方附近の環境自体が小林への前示脅迫を不能にするものとは思われない(このことは後述の奥の場合にも同様である)。

また徳本方で当夜就寝前、小林が徳本の体を「あんま」した事実があるが、これは小林が三月一〇日事件を白状後、徳本の気嫌がよくなり「君が言つてくれれば今後わしの建築の仕事も手伝つてもらい、後のことは引受ける」などと小林に話したりして(高田信子の昭和三七年一月三一日付検察官調書)、その場の空気が少し和らいだのも手伝いはしたが、いずれにしろ前認定の状況後のことであれば抵抗力を失い弱者の立場に立つた小林が、徳本の歓心を買おうとしてのものであつたと認められ、小林がこの間の事情を「向うに安心させるため」と供述するのも充分に肯ける理由である。

一夜を徳本の監視下に過した小林は、翌一三日午前九時頃から徳本に大塚私立探偵社に連行され、私立探偵大塚義一の取調を受けることになつたが、小林はこの時の状況につき、「大塚私立探偵社の看板が上つており、中に入ると徳本と大塚が何か話しているのを見て、二人は一緒やな、グルやなと思つた」と供述するが、前夜来の状況に加え更に私立探偵社に連れこまれた身になつてみれば、そう思うのも無理のないことと考えられる。

およそ警察署あるいは検察庁での取調なら、取調によつて明らかにされる罪への恐れはあろうとも、生命身体に対し何をされるか分らぬという恐怖心は先ずなかろう。しかし小林の場合のように前夜徳本に脅迫されたあげく、一味と思える探偵社社長と名乗る人物から改つてただ独り取調を受ける立場になれば、先ず一般の通常人であればその場の空気に呑まれもしようし、また身にどのような危害が降りかかるかも知れない畏怖心をつのらせ、反抗の気力を喪失してしまうに至ることは容易に推断される。

その故にこそ、大塚が小林に対し「警察でも検事でもない。私立探偵だから」と身分を明かして取調を始め、その態度、口調に小林を畏迫するようなものはなかつたにせよ、小林が大塚から「三件の自動車強盗事件で服役した外に、今一件隠していた事件があつたというわけだな」と問われて、「はあ」と答えたのみで「自分はやつていない」と言えなかつたのである。

しかも隣室との境のガラス戸に徳本らしい人影が移り、更に取調中に徳本が入室し大塚の手元の小林の供述の下書きを見て「後でわかるこつちやさかいに」と言つて退室して行く等のことがあつては、前夜徳本に対して自白した事を否定する話を大塚に述べる勇気は小林に出なかつたのも当然であろう。

この間の心境を小林は、「前夜徳本から縄や拳銃を見せられたし、第三者ならともかく、その場に立つた者としては絶対言えなかつた」、「どうせここまで来たんだから仕方がない。もう逆らわんとそのままにしておいたらと黙つていた」と供述するが、ここに至る経過から考えて充分理解のできる心理と認められる。

そうすると以上のような心理状態の小林に対する大塚の取調によつて得られた、小林の三月一〇日事件に関する前記各供述は前夜徳本の脅迫下に認めた三月一〇日事件の経過内容をそのまま大塚にも述べざるを得なかつたもので、任意性に欠けるものと認められる。なるほど全体を通じ大塚から小林に対し暴行、脅迫を加えた形跡なく、また威迫的な調子で尋問がなされた点も見当らず、更に大塚が小林に対し「造りごとはいかんで」、「隠しておつた事件というのは間違いないか」、「心の底から神仏に誓って間違いないと言えるか」、「第一回口供録取書の内容は絶対間違いないいうんだね」と何回も念を押し、その都度小林が「ええ」と答えている事実が認められはするが、それだけでは小林供述の任意性を担保するには足りない。

なお、大塚の小林に対する取調を収録した録音テープを再生聴取すれば、大塚の問に対し約一〇回近く小林が笑い声で、あるいは笑いを含んだ声で応答している場面があるけれども、この時の小林の心理状態を考慮すれば小林が時に笑い声で応待しているからといつてその取調が双方うちとけた空気の下で行われていると速断するのは早計である。笑いにもいろいろな種類があろうが、一種の照れ笑いや自嘲もあるし、深刻な場面にあうとかえつて笑顔が出たり笑い声が出たりすることもないとは言えない。前記のとおりの前夜来の状況を併せ考え、録音から聴き取れる小林の笑いは、むしろこの種の笑いの響きを持ち、明るい心理状態での笑いではないと判断される。

〈2〉 次に奥の場合にはやはり午後五時頃信子により勤務中の奥を工場外に誘い出し、連れ立って歩く奥の背後から待ち構えた幹雄らが乗用車で近づき奥の横で停車し、奥にとつて当時は何者とも知れぬ幹雄が用件も言わずに何回も、「五分か一〇でもいいからちよつと来てくれ」と告げた手段方法は、先ず奥に与えた不安の度が大きいと言わねばならない。以下前記第四の一の(三)10・11・12の経過を眺めると、もはこれは半ば誘拐的とも言える方法での連行と認めて妨げない。そして当時の奥にとつて何処の誰とも知らない人家に連れこまれては、言い知れぬ不安に襲われたであろうことは推測に難くない。

続いて奥に対する前記第四の一の(三)13・14・15のとおりの徳本らの行動は、奥の生命身体に対する脅迫行為と言うに充分であつて、そのあげく奥は徳本に同17記載のとおり怒鳴られて遂に「すみません」と答えたのである。

この時の状況につき、奥は「こうなつたらもう帰られへんかと恐しくなり、徳本が凶器を持つていると思い、知らないと言つたら完全に殺されると感じた」、「最初殺してから出えと言われているし、恐しくてどうすることもできず、すみませんと答えた」と供述しているが、既に勤務先から連れ出された時から少なからず不安を抱いていたことに加え、全く未知の場所に連れこまれ拘置所で見かけた記憶のある男らから孤立無援のうちに前記のような脅迫を交えた取調を受ければ、恐怖して全く反抗を抑圧されてしまうのが一般通常と考えられるから、奥の当時の心理についての右供述は信用することができると言うべきである。

引続き奥は午後七時頃徳本に大塚探偵社に連行され大塚に引渡されたのであるが、この時の状況は前記第四の一の(三)18のとおりでこれを見た奥は、「大塚と徳本がてつきりグルやなと感じた」旨供述し、小林の場合同様これも無理のないことと考えられるところ、更に前同19・20の状況で大塚の奥に対する取調が行われた。

当時の取調状況につき奥は、「明日の仕事もあるし帰してくれと頼む気持もあつたが、社長室に入つたらこわいばかりで声にならなかつた」、「もうまともに帰られへんと思つて、最初徳本の家で出るんやつたらおれを殺して出え言われて、それが頭に残つてしまつて……」と供述する。

既に前記〈1〉小林について詳説したと同様の理由から、奥が大塚の取調に際し反抗の気力を喪失したことは充分推測されるので奥の右供述は信用することができ、その故にこそ奥は大塚に二月二日事件を説明した後、大塚に「正直に隠しておつたことを言うてくれ」、「それは前の事件やろう、もう一つやつとるやろう」と尋ねられて、遂に「すみません」と頭を下げるに至つたと認められる。

かてて加えて、同21・22・23・25のとおり大塚が先に小林を取調べた際収録した録音テープを奥に聴かせたうえで奥を取調べた。

この時の状況につき、奥は「大塚が小林がああいう風に言つてるから正直に答えてくれ、いつやつたと聞き、二月一〇日前後と答えた。すると大塚が日はそれでもかまへんと言うので、日ははつきり言わずに大体二月二日事件の時の模様を思い出し、また小林の録音を聴いていたから、録音どおり小林、下山と三人で一緒になつて運転手を殴つたりほりこんだりしたと答えた」旨供述するが、前記のような心理状態下の奥に対し、小林の録音テープを聴かせたうえ取調べれば、奥としては大体その趣旨に沿う供述をせざるを得なかつたと認められるから、奥の右供述は充分信用することができる。

結局、以上のような心理状態下に大塚の取調を受けた奥の供述は全く任意性を欠くものと認めざるを得ない。従つて取調前に大塚から「警察ではないし遠慮することはないから、正直に自分のかくしておつたことを言うてくれ。君の味方でも徳本の味方でもない。ただ困つている人を助けるように、こういうふうにやつている……」等の発言があつたにせよ、既に徳本の脅迫を受けたうえその後に現われた大塚を徳本一味と感じた奥の心理をときほぐすには、それは何の効用もなかつたと考えられる。

更に以後行われた奥の取調に当り、大塚から直接暴行、脅迫を加えた形跡も、また強く威迫的な調子で尋問がなされた様子も一件記録上見当らず、また大塚が「録音は間違いないか」、「今日話をしていることはほんとに間違いないか」、「徳本という男が君らの身代りで疑いを受けて拘置所へ入つとつたということは間違いない事実やな」等と、何回も念を押し、その都度奥が「やつたことは間違いありません」、「間違いありません」、「はい、大変こちらのかたには迷惑かけてる思うて、心からすまないと思うてます」と重ねて答えている事実があるけれども、なおかつ奥の三月一〇日事件に関する供述の任意性を担保するには足りない。

〈3〉 更に下山の場合は午後八時頃前記第四の一の(四)6・7・8・9のとおりの状況で、大阪の勤務先から誘い出され車に乗せられ神戸まで連行されているのである。当時のこの下山の如く、夜間突然訪れた男女から用件を尋ねても告げられず、行先も分らぬまま、ちよつと来てもらつたら分るなどと言つて車に乗せられ遠く連行されては、一体何事が起きるかと身に大きな不安を抱かぬ者はあるまい。半ば誘拐的方法による連行と言えよう。下山は右連行だけで半ば抵抗の気力を喪失したと認めるに充分である。

下山はかつて拘置所で約一週間同房だつた関係で徳本とは面識があり、しかも徳本から当時既に前記第四の一の(一)6のように自動車強盗事件のことでしつこく言い寄られ脅迫文句まで言われていたことから少なからぬ恐怖心を徳本に対し抱いていたと見られる。

右のように夜間遠く連行されたあげく、現われたその徳本から未知の人家に連れこまれ前記第四の一の(四)11のとおり、「君もここへ来て大体のこと分つておるから、これから社長のところへ行つてほんまのことを言うてくれ」と言われて、下山は「そこで初めて拘置所のことだろうかな」と記憶を復活させている。

その拘置所での記憶を復活させた以上、右第四の一の(一)6の状況、とりわけ「今度しやばへ出たら、かたわにする。うちのものもかたわにしてやる、ただではすまん」との脅迫文句も下山の胸中に鮮やかによみがえつたと推測され、加えて当夜の状況から、ここに下山もこれから一体何が起るかと身に不安を覚え恐怖心を抱いたと認められる。

下山は間もなく大塚探偵社に徳本により連行され、私立探偵と名乗る大塚から取調を受けたのであつてその状況は右第四の一の(四)111213のとおりである。当時の状況につき下山は、「初め自分は知らん知らんと言うていたが、大塚がしまいにあんまり大きな声で怒鳴つた時に社長室の外におつた人の下駄や靴の音がガヤガヤしたのでこわかつた。その時徳本から、拘置所でしやばに出たらかたわにするぞと言われたことも思い出し、ここで白状せなんだら、直接社長は手を出さないでも事務室にいる連中から寄つてたかつてかたわにされたらかなわんと思つた」旨供述するが、下山が当時徳本らの監視下にあつたことは前認定のとおりであり、そもそも前記のとおり勤務先から連行され大塚の取調を受けた一連の経過を眺めるとき、下山が全く心理的に抵抗力を失い畏怖した状態にあつたのも無理はないと考えられるから、下山の右供述は充分に信用することができる。

従つて右のような心理状態下に大塚の取調を受けた下山の供述は全く任意性を欠くものと認めざるを得ない。下山の第一回口供録取書作成後収録した大塚の下山取調の録音に、大塚の「今から録取書を読み上げるから、若し君の言わないことが出て来たら遠慮せずに違うということをはつきり言つてもらいたい。つくりごとがあつてはいけない。正直に君が話をしてくれたものを、そのまま僕が正直に録音するのが本当だから」との発言があつて録取書が読み上げられ、「まちがいないね」、「訂正するところは」、「最初から最後まで君の言つたとおり、思つたとおり書いてあるか」と重ねての大塚の問に、下山が「まちがいありません」、「訂正するところは別にありません」、との応答がなされている事実があり、また大塚の下山に対する取調に直接暴行脅迫を加えた形跡は記録上見当らないけれども、これらを以てしても下山の三月一〇日事件の供述の任意性を担保するには足りない。

〈4〉 なお大塚の小林、奥、下山三名に対する取調は各一回限りで終つたわけではなく、小林については昭和三六年一〇月一三日から一五日まで三日間、奥については同じく一三日夜から一六日まで四日間、下山については同じく一四日夜から一六日まで三日間にわたり、各口供録取書を作成し取調の模様を録音テープに収録しているが、その間人家密集地区の徳本方等に宿泊しつつ大塚探偵社に出入りのため街路を通行し、また現場検証のため神戸から有馬、宝塚、川西、池田、豊中、大阪に至る諸地域を白昼幾多の人の目に触れながら行動しており、従つてこのような状況下で小林ら三名が果して何日間も畏怖心を持ち続けていただろうかとの疑問も起きよう。

しかしながら既に前認定のとおり、右期間を通じ小林ら三名が徳本方等に宿泊起居に当つては必ず常時前記田中ら若者の誰かが付添い監視し、大塚探偵社への出入りはもとより探偵社での大塚の取調の最中も、更には実地検証に出かけた際も途中必ず常時前認定のとおり徳本あるいはその他の者が同行監視し、また奥の場合探偵社での取調途中で用便に立つても監視に当つていた田中が便所にまでついて来るほどの状況であつて、以上によれば大塚の取調終了時に至るまで小林ら三名それぞれ絶え間のない監視の眼にさらされていたため、三日間あるいは四日間徳本らの支配下に身を置き大塚の取調を受けざるを得なかつたのであり、しかも緊張その極に達した徳本らのかもし出す空気の中に置かれてそれに呑まれ全く反抗の気力を喪い、指示されるとおりに行動したもので、この心理状態は大塚の取調終了に至るまで継続し遂にゆるむことがなかつたと認められる、下山の場合実地検証に出かけた時は、大塚らのほかに新聞記者が大塚からの連絡で終始同行している事実があるが、下山は当時右新聞記者を大塚の秘書と思いこんでいたのであるから警戒心を解くはずもなく、抑圧された下山の心理に何の作用もなかつたことは明らかである。

しかしなお、この三日あるいは四日の間に、大塚探偵社への出入りの途中の街路でまたその他の人目に触れる場所等で、小林らが若し脱出逃走しようとすればあるいはその機会は有つたかも知れないがそれを試みたことは一回もなく、家に帰してほしいと申出たこともなく、奥は途中一度勤先に電話をかける機会があつたのに、また小林の如きは大塚の取調終了後ではあるが帰宅の父を送つて神戸電鉄湊川駅まで田窪に同行されながらも足を運んでいるのに、更に同様取調終了後小林ら三名入浴を許されそれぞれ監視付きではあるが公衆浴場に入浴に行つたこともあるのに、いずれも誰に訴えるでもなく、また更に上記入浴時のみならず取調途中でも三人顔を合わせた機会もあつたのに脱出逃走の相談はおろか私語、耳うちすらしたことがないことなども証拠上明らかである。しかしこれは取りも直さず、小林ら三名が右のような行動を試みようにも試みる気が起きない位、徳本らに監視されそれのかもし出す空気に呑まれて圧迫され畏怖して自由意思を失い全く抵抗の気力を喪失していたことを物語る何よりの証拠ではなかろうかと考える。

二、小林、奥、下山の各自白の信用性

以上の次第で小林ら三名の前記各供述には任意性を認めることができないが、更に進んでその信用性はどうであろうか。

(一)  先ず三月一〇日事件の被害者稲村清の被害当時の模様は、前掲原確定事件記録中の同人の供述部分によると、

1、犯行は昭和三二年三月一〇日深夜であること

2、被害者運転のタクシーは犯人達を神戸市生田区楠町七丁目の神戸医科大学附属病院前附近で乗車させたこと

3、その際右タクシーは平野方面から右病院前を通りかかつた、つまり北から南に向けて走つていたところ、犯人のうちの一人が道路反対側から北行市電軌道まで出て来て手を上げて合図したため、タクシーはユーターンして北に向けて停車したこと

4、犯人達の告げた行先は「鈴蘭台」であること

5、犯行現場は神戸市兵庫区山田町小部森岡の有馬街道上、原確定判決認定地点であること

6、同所でタクシーが停車したのは犯人達から停車を命ぜられたからではなく、助手席にいた犯人が今にも吐きそうに車の扉にもたれかかるようにしたので、降りるのかと思つた稲村運転手自ら停車したものであること

7、同所で稲村運転手が客席の男に後から首をしめられた際、懐中やポケツトを探られたりして金を奪われたのではなく、運転席の前の棚にボール箱や煙草の空罐に入れていた金を奪われたものであること

8、稲村運転手は後から首をしめられ苦しいため床を蹴つて客席に落ちこみ格闘するうち、手が客席左側扉に触れたのでそれを回して扉を足で蹴るようにして、自ら車外に脱出したものであつて、犯人達に運転席横の扉を開けられて車外に引きずり出されたものではないこと

9、車外で稲村は殴る蹴るの暴行を受けたので、このままでは、殺されると思つて自ら道路左側の川に逃げこもうとして、川淵から下半身を崖にもたせて逃がれようとしたが、犯人達から路上に一旦引戻され、最後ようやく右の方法で川にずり落ちるようにして脱出したのであつて、犯人達から川にほりこまれたり突落されたりしたものではないことが認められる。

(二)  これに対し、小林、奥、下山三名の自白は右の各点につき

1、犯行日は

小林は最初の自動車強盗は昭和三二年三月中頃で二度目の三人組の事件はそれから約一週間後であつたとも、また昭和三二年三月初頃三人組で最初に自動車強盗をやつた時から約一週間経つた頃とも言い、

奥は最初の三人組の事件は三月初頃、その次の三人組の事件はそれから約一週間した三月一〇日過ぎとも三月一〇日前後とも言い、

下山は三組人の初めの事件より約一週間後の昭和三二年三月一〇日前後と述べ、

以上三名の大体の結論は結局のところ、三月初頃の最初の三人組の自動車強盗事件の約一週間後が犯行日というもののようである。

しかしながら、そのいわゆる小林ら三人組の最初の自動車強盗事件が昭和三二年二月二日であることは記録上明らかであるから、これを三月初頃と称するのは小林ら三名の記憶違いかと考えられ、本件犯行が最初の事件の約一週間後というのであれば、二月二日から約一週間後ということになり、三月一〇日の本件犯行日とは余りにも違い過ぎる結果となる

2、被害タクシーに乗車した場所は市電楠町六丁目交差点からちよつと上にあがつた場所または交差点から約一〇〇メートル北にあがつた場所であること

3、被害タクシーは南から北に走つているのを停めて乗りこんだこと

4、運転手に行先を「有馬」と告げたこと

5、犯行現場は

小林は前記第二の1、2のとおり当初は二月二日事件現場を指摘していたのが、同8のように実況見分後は二ケ所似たところがあつてどちらともはつきりしないと変り、更に同3のとおり最後に三月一〇日事件現場附近が正しいと供述を変えたこと

奥についても当初は前記第二5、6のとおり二月二日事件現場を指摘していたのが、同8のように実況見分後によく似たところが二ケ所ありどちらともはつきりしないと変り更に最後には同7のとおり三月一〇日事件現場附近が正しいと供述を変えたこと

下山は前記第二10、11、12のとおり三月一〇日事件現場附近と供述していること

6、犯行の際は運転手にストツプを命じて停車させたこと

7、運転手の懐中またはポケツトを探して金を奪つたこと

8、三人がかりで運転手を運転席の扉から引ずり降したこと

9、更に運転手を三人で川にほりこみまたは突落したこと

と供述することが認められ、

(三)  右はいずれも三月一〇日事件に至るまでの状況及び犯行の状況についての重要な諸点であるが、(一)(二)を相互に比較対照すると、小林ら三名がそれぞれ真に経験した事実を供述するものとしては、余りにも三月一〇日事件の事実と相違しまたあいまいであること、しかもこれら諸点の相違やあいまいさが単に年月の経過による小林らの記憶の減退によるものとするには、経験者の供述である限りにおいて余りにも相違があり過ぎあいまい過ぎること、また三名が記憶の減退により各自あいまいな供述をしたものとしても、それならそれで三月一〇日事件の事実につき各自その供述に種々食い違う所があるのがむしろ自然であろうに、かえつて右諸点において奇妙に供述が一致し揃つて事実と相違するのが多く、奇異の感を抱かせること、更に2、乗車地点、4、行先、5、小林、奥が当初述べていた犯行現場の位置、6、現場で停車を決定した人物、7、奪取金銭の出所の諸点と三名の自白に認められる犯行に至るまでの間被害タクシーに乗りこんだ各人の位置(助手席奥、運転手席直後の客席小林、その横の席下山)などは、監禁事件一件記録中の二月二日事件の被害運転手橋本正義の供述及びその関係証拠によつて認められる同事件の犯行態様とほぼ一致していること、以上の諸点が窺われる。

これらを総合すると、小林ら三名の自白はそれぞれ経験した三月一〇日事件を故意に二月二日事件に潤色して供述したという意味において真実を述べていないが、さもなくばそれぞれ経験し犯行の態様を事実にほぼ一致するほどに記憶していた二月二日事件そのものを供述したのではないかとの疑が濃厚である。

そればかりでなく、そもそも小林ら三名の自白によると三人で初めてやつた自動車強盗事件の約一週間後の犯行という三月一〇日事件について供述するところが、前記重要な諸点で相違したり、あいまいであつたりすることは、真の三月一〇日事件の経験者の供述としてとうてい理解できることではなかろう。

(四)  このことは、更に奥の自白中三月一〇日事件で被害者が犯行現場で暴行を受けた後有馬駅の方に向つて逃げたとか、奪つた自動車を大阪駅まで運転して行つた旨の、三月一〇日事件の事実とは全く異なる事実の供述、また小林が犯行現場で格闘中紛失したとされた下駄について、それを新しいはきものと買い替えた事実の有無、その時刻等についての三名の自白が極めてあいまい且つ不自然であること、更に三月一〇日事件では犯人達のうち助手席に乗つていた男が犯行現場に至る前、吐き気を催したような様子で途中一度停車して降りたので、稲村運転手が介抱しようとした事実があるほか、犯行現場では被害者は下駄で暴行を加えられ、また川の中に脱出してからは路上の犯人から石を投げつけられた事実が原確定事件記録中被害者稲村清の供述により明らかであるが、三名の自白中にはこの点に触れた供述が全くないことなどを加えて総合考察するときは一層その感を深くする。

(五)  殊に大塚が奥を取調べた際の前記第二6の録音については、大塚の質問に対する奥の答が随所で途切れ、暫く考えた後自信なげな口調であいまいに事実を述べる部分がいたる所に聴取され、とうてい経験者の真に自然な供述とは考えられないし、また前記第二8の大塚が小林、奥を取調べた際の録音テープは、その日大塚が小林、奥を同行して行つた実況見分の結果についてのものであるが、これも大塚の独り舞台で実況見分の結果を大塚が自分で説明し小林、奥に単に同意を求めているだけで両名からの具体的供述は聴取できないから、これは本来両名が実況見分の実際においてどのような指示説明を行つたかという事実と併せ考察すべきものとしても、右テープだけからではどのような心証も持つことはできず、かえつて実況見分を行つた後であるのになおかつ小林、奥ともに、三月一〇日事件の犯行場所によく似た所が二ケ所あつてどちらともはつきり分らないと述べていることが注目される。

(六)  更に三月一〇日事件の当夜午後一二時前頃、犯人達は三田から志手原に通ずる兵庫県有馬郡三田町梅の木の街道上において、奪取自動車を停め通行中の小坂喜代治、谷口勇両名に対し三木へ行く道を尋ねている事実がある。このことは、原確定事件第一審記録中の今西忠光の司法巡査に対する供述調書中、「昭和三二年三月中頃の午前〇時頃小柿街道で自動車が故障して修理中、大阪方面に走るタクシーに会つた。反対側なのでよく見ていなかつたが、オースチンやなと弟が言つていた。後からパトカーが来て自動車強盗があつたと聞いて驚いた」旨の供述、今西一行の司法巡査に対する供述調書中、「右のタクシーには運転手と乗客二人が乗つていた」旨の供述、藤本進一の司法警察員に対する供述調書中、「昭和三二年三月一一日午前一時三〇分頃同じタクシー会社に属する番号兵五あ四六〇六号のタクシーが豊中市内で豊中市から大阪の十三に抜ける道を十三方面に向つて疾走して行つたのを目撃し、今頃こんなところまで乗客を送つて来ているなと思つていた」旨の供述及び小坂、谷口両名の「道を聞かれた車に乗つていた運転手はタクシーにしては運転が下手で、教えたとおり引返して行こうともせず去つたことから、何か不審に思われたので警察に届けた。車は三田あたりでは見かけない車であつた」旨の供述を総合すると間違いないと考えられる。

ところで小林らはいずれもこの三田方面に当時住居を持つ人間で、とりわけ小林にとつては三田から三木へ行く道は自宅に帰る道だからよく知つているというのに、右のように逃走途中に三木への道を尋ねるということは真犯人としてはとうてい理解し難いことである。

この点に関し、大塚が前記第二9のとおり昭和三六年一〇月一六日奥及びその兄富久治との対談を録取した録音テープにおいて、兄富久治が「ちよつと話を聞くと、あの、そやけど、上の療養所の方で道を聞いてるて、それ誰が道聞いたんや」と問うたのに対し、奥が「いやそんなとこ行つていない思うとんやけどなあ、せえもはつきりわかれへんけど、多分あの時分やつたら、そら三田はぼくら勤めとつたんやから、そんなところまでまさか行く、これは常識で考えてもそないところで道を聞く、道を聞くいうなことは、ないやろう思うんやけどねえ」と、三月一〇日事件の犯人としては極めて頼りない、そして奥自身もその近辺の地理に通じていたことを示す返事をしている事実を見逃すわけにはいかない。

ところで大塚は奥兄弟の右会話に介入し、「犯人達が道を尋ねたというのは何かの間違いで、たまたまほかの自動車があのへんで道を聞いたのであつて、奥本人がそんなとこ行きませんと言つてるのが正しいと思う」旨発言し、これを兄弟に押しつけている様子が右録音テープに窺われるが、右発言が事実に反するものであることは右に見たとおりである。

(七)  次に前記の点と関連して小林ら三名の前記自白によれば、三月一〇日事件犯行現場に至るまでの被害タクシー車内の各乗車座席の位置は、運転席の左側すなわち助手席に奥が、運転席直後の後部座席に小林、その左側には下山が乗りこんでおり、右タクシー奪取後は小林が運転席に乗つて運転し、奥、下山は奥の自白によれば助手席に奥が、後部客席に下山が、小林の自白によれば後部客席に下山、奥両名が乗りこんでいたことになる。

一方、三月一〇日事件の犯人三名の中の一名とされた徳本は、犯行前後を通じ助手席に乗つていた男として指摘されていることは、被害運転手稲村清、目撃者谷口勇、同小坂喜代治の原確定事件記録中の各供述によつて明らかである。

以上をつき合わせると、小坂、谷口両名は小林の自白によれば誰も乗つていない助手席に犯人の一人を認めたという奇怪なことになり、また奥の自白によれば稲村、谷口、小坂三名は助手席に乗つていた奥の顔を見て徳本と誤認指摘したことになるわけである。

しかし本件再審請求事件記録中にある徳本と奥の写真によつても、両名が容貌その他外観上同一人と誤認混同されるほど似通つていないと認められるから、三月一〇日の事件当夜の条件下でも先ず両名が誤認混同される虞れはないものと考えられる。

そうすると、被害者稲村らが奥を見て徳本と誤認した虞れはないことになるから、小林ら三名の犯行前後を通じての各乗車位置に関する供述は信用できないと言わねばならない。

この点、従来から下山が徳本とよく似ていると言われており、奥も前記第二6の録音テープの中で、二月二日事件で拘禁中徳本を一目見た時下山だと思う位両名はよく似ていると感じたと供述する部分がある。従つて稲村ら目撃者が真犯人の一人であるべき下山を徳本と誤認指摘したのではないかとの疑問もあろう。

しかしこれも、小林ら三名の自白によると下山は犯行前後を通じ終始後部客席に乗りこんでいたというのであるから、「助手席に乗つていた」と指摘される徳本と下山が誤認混同される機会は先ず絶無と言うのほかはない。

加えて奥の前記録音テープによれば、奥は犯行時帽子を被つていなかつた旨供述しているのに、稲村、谷口、小坂が「助手席の男は登山帽またはソフトのような帽子を被つていた」旨供述し矛盾するので、奥はとうてい真犯人と考えることはできない。

(八)  大塚の奥に対する誘導尋問

大塚が奥を取調べ録取した前記第二6の録音テープを聴取すると、次のような大塚の誘導尋問の部分がある。

●犯行の回数について

大塚「それはいつごろのこと」

奥 「三二年の三月頃やつたと思うんですが」

大塚「それが初めか」

奥 「はい」

大塚「うむ、それが初めというと、まあ二回目があるわけやな」

奥 「はあ」

大塚 「そうだね」

奥 「はあ」

●タクシーを呼びとめた地点につき

大塚 「それから車をとめたんはどこや」

奥 「楠六、六丁目いうんですか、あそこの交差点」

大塚 「うん、うん、楠町六丁目の交差点」

奥 「はあ、あの辺でとめました」

大塚「あの辺で」

奥 「とめてそこから乗つたんです」

大塚「あの交差点でか、交差点より西か東か北か南か」

奥 「ちよつと上へあがつたとこや思いましたけど」

大塚「うむ、楠六の交差点からちよつと上へあがつたとこいうと、平野の方へ寄つたとこだな」

奥 「はあ」

●タクシーを呼びとめた時のタクシーの走つていた方向につき

大塚「うむ、それでその車どつち走つとつた車や、どつち向いとつた車や、進行は」

奥 「東向いとつた」

大塚「東とは」

奥 「大阪の方」

大塚「あの道はなあ、平野の方へ行つとる道やなあ、楠六から向うやつたら、そうすると自動車は平野の終点の方むいとつたんか、逆に海岸の方むいとつたんか、どつち走りよつたんか」

奥 「はあ、あの平野の方むいて走りよつた」

●犯行直後の状況につき

奥 「それからその車をとつて三人乗つて、僕が一番端つこへ乗つたように思います」

大塚「うん」

奥 「そんで」

大塚「あのねえ」

奥 「はい」

大塚「そんなら道ばたで袋だたきにして、それで運ちやんどないしよつた、のびてしもうたか、道で三人でいかれて道へのびてしもうたんか、それとも逃げたんか」

奥 「逃げたように思うんですけど」

大塚「運ちやんが」

奥 「はあ」

大塚「どつち逃げた」

奥 「あのう有馬の駅の方へ」

大塚「駅の方へ逃げた」

奥 「はい」

大塚「あのう、その道にはだねえ、川が沿つてたんか」

奥 「あつ、川、川はありました」

大塚「川あつたん」

奥 「はい」

大塚「うむ、格闘するときに誰か川へはまつたんやないのか」

奥 「運転手を三人で、運転手を川へほりこんだように思うんですけど」

大塚「それもはつきり言えよ、どない思う、よう考えてみ」

「三人で殴つといてから運転手を三人で川へ突き落したように思えるか」

奥 「突き落しました」

●小林の当時のはきものにつき

大塚「大阪で自動車を乗り捨てた時に、何か気付いたことはないか、小林は靴でなかつたというこということだなあ」

奥 「はい」

大塚「そのことについて、大阪で自動車を乗り捨てた時にだなあ、何か気付いたことはないか」

奥 「小林が、あのう、有馬で格闘した時に下駄を失うたかどないか、なくなつたいうてあのう言いました」

大塚「それでどうしたんや」

奥 「それで下駄を買いに行くのを、誰が買いに行つたか、それ分らしません」

大塚「小林が、あのう、運転手と格闘した際に、下駄か何かはきものを片方のうしたと」

奥 「はい」

大塚「店が開けてからはきものを買うたと」

奥 「はい」

大塚「ほんで小林のはいとつた片一方なくしたんだが、その片一方はどうしたんや、その下駄かつつかけか大阪へ着いた時には片方あつたんやろ、なつ、君見たか」

奥 「片方だけ、あの、車に置いとつたように思います」

以上のような次第で、犯行回数につき大塚は「それが初めというと、まあ二度目があるわけやな」と誘導して奥に「はい」と答えさせ、タクシーを呼びとめた地点を奥が「楠町の交差点のあたりでとめて、そこから乗つた」と答えているのに、「交差点より西か東か北か南か」と尋ねて、「ちよつと上あがつたとこや思う」と答えさせ、「楠六の交差点からちよつとあがつたとこいうと平野の方へ寄つた方だな」「はい」と乗車地点の誘導をし、タクシーの走つていた方向につき奥は東の方、大阪の方を向いて走つていたと答えているのに、大塚が「平野の方へ向いとつたのか」と誘導することによつて「平野の方」と答えさせ、犯行場所や犯行の状況につき、そばに川が沿つていたこと、三人で殴つてから運転手を三人で川へ突き落した旨の答えを誘導し、最後に小林のはきものの点につき、奥は小林が下駄を片方なくした旨の発言を全然していないのに、勝手に「小林がはきものを片方なくした……」と尋問を行つている点に至つては、誘導尋問もここに極つたと言うべく、右諸点についての奥の供述は信用性に乏しいと言うほかない。

(九)  なお小林ら三名のそれぞれの家族との対談録音テープも前記第二4、9、13のとおりの内容をもつて存在するが、これらも今まで述べて来た状況の下で大塚の取調をそれぞれ受け終つたその後のものであること、また小林の父賢治、下山四郎の各供述によると、一〇月一五日小林の父が小林と対面のため呼出され義行宅で待つていた時、大塚探偵社での取調から帰つて来た下山と顔を合わせ、下山の監視役田中が便所に立つた隙に、小林の父が「お前やつぱりやつたんか」と尋ねたのに対し、下山が「僕はやつてないから心配せんでもよい」と答え、話が聞えると「これになるかも分らん」とナイフで突く真似をして、田中が便所から出て来る様子に「シー」と手で口を押えてみせたこと、また奥の兄富久治の「自分が一六日呼出され大塚探偵社に到着し五分位経つて弟が連れられて入つて来た。自分が弟の前まで近づいて行つたら、小さい声で『何も言わんでくれ』と言うので声はかけなかつた。弟は半泣きしているような元気のない姿だつた。自分は弟の言葉の意味がよく分らなかつたが、そばに徳本、幹雄、義行、田窪、谷本らに下山、小林、下山の母ら沢山の人がいるし、いい感じもしなかつたので問い返していない。……なお社長室に入る前、事務室にいた下山の母と話をした時、同女が小さい声で『うちの子供はやつてないと言つている』と話したので、大塚と弟と対談した時に『下山はやつていないと言つているがどうか』と大塚に尋ねたことがある」旨の供述下山の母こたみの「一〇月一六日探偵社で大塚、四郎と三人で対談録音の後、事務室で人の隙のあつた時四郎が『僕はあんなこと言つたが、実際はそんなことしてないから心配せんでもよい』と言つた。これは四郎が私のそばに寄つて来てひよつと話してくれたが、当時事務室には五、六人の人がいたがほかの人には聞えないような小さな声だつた」「またその夜大塚探偵社から幹雄方へ歩いて行く途中、そばにいた谷本が少し離れていた時に、四郎から『さつきはやつたと言つたが、ほんとはやつていないのやから心配せんでもよい』と言われた」旨の供述、下山の「一六日夜探偵社から幹雄方へ行く途中、谷本がそばを離れた隙に母に『僕らやつてへんのやから心配せんでもええ』と言つた」旨の供述等を総合し、前認定の各録音収録時の状況を併せ考慮すれば、右各家族との対談録音テープも果して小林らの真実の声を伝えるものかどうか疑わしいと言わねばならない。

(一〇)  以上小林ら三名の各自白を概観したが、前記のとおり種々不可解な点、容易に信用できない点があり、これらがひいては自白全体の信用性の有無に大きく影響することは避けられない。

もつとも以上検討した三名の自白中にはそれぞれ三月一〇日事件に関する具体的な供述も多分に含まれ、また三名が大塚と同行した実況見分では一応犯行場所の指示説明も行つており、それが直接経験者すなわち真犯人でなければ述べられない事柄ではなかろうかとの疑問も当然起つて来るところである。

しかしその疑問点も前述した所でほぼ尽されたと考えるので、最後に小林ら三名の犯行場所の指示説明の状況と自動車乗り捨て場所に関する供述を検討することとする。

イ、犯行場所の指示説明の状況

〈1〉 小林、奥の指示

当初の大塚の取調に対し、小林は有馬街道の有馬の手前の唐櫃附近と、奥は有馬の手前の有馬口から有馬の方へ曲り、ガードを越したところにある橋を過ぎた附近と述べていたのが、その翌日大塚に同行して行つた実況見分後には、両名とも(イ)平野から有馬街道を走り川に沿つた金清橋から、四、五丁位北へ行つた所、(ロ)、有馬口を過ぎガードを越え有野町の水無橋から少し行つた附近で人家のある所から二、三百メートル北へ行つた所、の二ケ所がどちらも現場によく似ていていずれともはつきり分らないと供述を変えている。そこで実況見分に際し犯行現場の指示説明はどのような経過で行われたかを検討する。

監禁事件一件記録によると、当初小林、奥の供述した唐櫃附近の地点は二月二日事件の現場を指していることが明らかであり、昭和三六年一〇月一四日行われた実況見分においても、小林、奥ともに最初右唐櫃附近の二月二日事件現場を指示したが、その後一旦平野あるいは金清橋附近まで引き返したうえ再び山田町小部森岡の三月一〇日事件現場附近で下車し指示をしていることが認められる。

右のように二月二日事件現場から引き返すに至つたいきさつについては、

小林の「自分ら三人でやつた時の大体同じとこらへんの有馬口の現場に行つた。どこやと言うからここやと言つた。大塚がこんなとこと違うと言つた。大塚が地図やら何やら書いたものを持つていて、皆に電柱の番号を探せと言つて探したがなかつた。徳本が大塚に初めからコース走りよつたらよう似たとこが二、三ケ所あつたから、もう一ぺん初から行つたらどうやと言つて逆もどりした」旨の供述、奥の「有馬行くまでに徳本からお前ら覚えてるとこ、どこでもええから言つてくれ直ぐとまるからと言われた。有馬に入るまで全然そんなとこないから、僕らやつたガード越してその現場まで来た。有馬は直ぐそこで、ここは二月二日の現場で僕はここらへんと違うかと徳本に言つた。そして前の車に合図して我々の車のとまつているところまで、大塚の車が逆もどりして来て、そこで全員降りた。僕は確かここらへんやつたと言つた。大塚が小林にどこやと聞いたら、小林もここらへんかも分らんと言つた。徳本がこんなとこやつたらもつと下にも同じようなところがある。もう一回逆もどりしようと言い、大塚もここと違うんと違うか、もつと下にもこんなよう似たような場所があつたと言つて逆もどりした。途中徳本から同じような似たところがあつたらどこでもええから言つてくれと言われた。そしたら平野まで出てしまつた。よく似たと思うような場所はなかつた」旨の供述、同行の自動車運転手平松忠夫の「大塚が私の車のそばで、よく似た所が手前にもあつたんやがなあ、そこへ引き返そうと言つた」旨の供述、同じく自動車運転手松元吉次郎の「大塚がいろいろ聞きたゞした後、もう一度引き返そうと言い出し、もと来た道を引き返した」旨の供述、入本の「大塚がここへ来るまでにこのあたりとよく似た所があつたから、もう一ペん引き返そうと言い出し、徳本が奥に来る途中よく似た場所があつたから引き返すからよく見て思い出してくれと言つた」旨の供述を総合すると、実況見分に際し最初小林、奥が二月二日事件現場に案内したのを、大塚、徳本が言い出して逆もどりすることになつたと認められ、右認定に反する徳本、大塚の各供述は前記各供述に照し信用することができない。

更に、三月一〇日事件現場附近で停車した時の状況については

小林の「逆もどりして金清橋まで帰つて来た。ところが奥を乗せた車が先に平野に降りてしまつたので、大塚が今日の指揮者はおれやのに勝手なことをしたら困ると言つて待つうちにまた引き返して来た。自分らの車が先頭で出発し、三、四分経つたころ後の車が前の車の横に来てとまり、徳本が大塚に奥がここよう似ておると言うたからというので全員下車した」旨の供述、奥の「平野からまた上つて来て約一〇分位行つたところで、横に乗つていた徳本からこの辺もよう似ておるんと違うかと言われたから、この辺だつたかも分らんと答えた。そしたら車をとめて徳本が降りて大塚に言つたと思う。全員下車した」旨の供述、同行者平松の「タクシーが先行し一〇分位行つたあたりのカーブになつた左側が谷で二、三メートルの深さのがけになつたあたりの道路右側に前の車がとまつたのでその後へ私の車をとめた」旨の供述、同行者松元の「私の車が先に、天王谷という所をのぼりつめた少し手前左側にがけのあるあたりに来た時、大塚がここでとめてくれというのでとめると、直ぐ後に来ていた連れの車もとまり皆降りた」旨の供述、田中辰夫の「前の車がとまつたので私らの車もとまつた。小林がこの辺やと言つて私らの車がとまつたのではない」旨の供述によれば、前認定のとおり予め調査して三月一〇日事件現場を知つていた徳本が奥にここら辺もよく似ておるのと違うかと問いかけ、この辺かも分らんとの奥の答えを得て大塚に連絡し、大塚の停車の指示に従つて全員下車するに至つたことが認められ、右認定に反する徳本、大塚の各供述は右各供述に照し信用することができない。

なお右実況見分終了後に収録した前記第二8の録音テープには、小林、奥とも犯行場所によく似た所が二ケ所あつてどちらともはつきり分らないと供述しているが、これは以上のような経過にもとずくものであり、またこれは一応実況見分を行つた後においてもなお両名とも確たる現場指示ができないでいたことを現わすものである。結局以上を総合すると三月一〇日事件現場に至る両名の指示は、両名自らの積極的指示によつたものでなく、大塚、徳本の誘導によることが歴然としており信用することができない。

また、右の如く実況見分後も確たる現場指示を行えなかつた小林らが、翌一〇月一五日に作成された各第二回口供録取書においては、突如として前記第二3、7のとおり三月一〇日事件現場を明らかに指摘するに至つているが、これにつき小林は「後からよく考え、今日共犯の下山と話合つてみると、この事件現場は実況見分で指示した平野に近い方が本当の場所のように思う」と述べているが、この日小林が下山と本件につき話合つた事実は証拠上全くなく従つて小林の右現場指示の供述は信用できないし、奥も右録取書につき「自分一人だけ大塚に呼ばれ、一四日に自動車でずつと現場へ行つたり大阪まで行つたことと、その現場へ行つたことの内容をきかれたと思う、自分は全然そんなこと知らなかつたが、大塚がこうやつたんと違うんかと言うので、そうやつたかも知れませんというような返事をした」と供述し、前日実況見分をしても犯行場所がはつきり分らないと言つていた奥が翌日の右録取書作成時に何故明らかに指摘できるようになつたか、そのいきさつが明らかでないし、犯行場所に関する供述の変化の模様、実況見分の状況等一連の事実を考慮すると、奥の右録取書における現場指示も直ちに信用はできない。

最後に下山は大塚の取調の際前記第二10、11、12記載どおり供述し、監禁事件一件記録によると昭和三六年一〇月一六日大塚に同行しての実況見分においても、先に小林、奥が指示した三月一〇日事件現場附近で下車し犯行現場として指示している。そこで下山の現場の指示はどのような経過で行われたかを検討する。

下山は「平野から坂を上り三つ目のカーブ位で自分は何も言わないのに車がとめられて降りた。大塚が三年前のことやし、この附近も変つていることやし、君もはつきり覚えているかいないか知らんけど、この辺覚えているかと聞いた。自分はこんなものはつきり覚えてないと言つた。大塚が写真をとつたりした」と供述し、同行の新聞記者福岡美彦は「終始大塚がリードをとつて下山に念を押すという態度だつた。車は大体大塚が指示してとめたと覚えている。下山は明確にはここだというような指をさすようなことはなかつたと思う。下山の言葉ではこの辺はちよつと様子が違つているというようなことを言つたと思うが、ここだというふうには言わなかつた。大塚は犯行の詳細についてそう質問していなかつたように思う」旨供述し、同行の自動車運転手平松は「有馬街道に出て徳本が川へ落ちたあたりへ行き、大塚が下山に、このあたりやなあと聞くと、下山は直ぐ返事をしていなかつたが、大塚はうんここやストツプと言つて自分で車をとめさせ、皆下車した」と供述し、これを総合すると三月一〇日事件現場へは大塚が連れて行つて下車し下山を誘導したに過ぎず、現場でも特に犯行の明確な指示がなかつたことが窺われ、右認定に反する大塚、田中の各供述は信用することができない。従つて下山の犯行現場の指示説明も容易に信用できないと言わねばならない。

ロ、自動車乗り捨て場所についての小林ら三名の供述とその現場指示の状況

小林第一回口供録取書「大阪に行きましたものの大阪の地理に詳しくありませんので、大阪の街に入つてから約二〇分走つたところでその自動車を乗り捨てました」

小林、大塚録音テープ

大塚「それから宝塚へ出て池田を通つて、で、大阪へ逃げた言うんだな」、小林「ええ」、大塚「で、車はどうしたの」、小林「で、大阪で乗り捨てて」、大塚「大阪のどのへんや」、小林「大阪は詳しいことないから分らんですわ」、大塚「うーん、分らんけれども、とにかく池田から大阪市へ入つて」、小林「入つて」、大塚「で、何分ぐらい」、小林「二〇分かくらいですなあ」、大塚「二〇分くらい」、小林「ええ」、大塚「で、どつちへ走つた」、小林「なんせもう、池田からずつと走つて大阪へ真直ぐ入つて行きましたわ」、大塚「西とか東とか、分らんか」、小林「ええ、全然、それあもう見当つけへんので分らしまへんわ」、大塚「大阪はよう知らんの」、小林「全然行つたことないから分らしませんわ」、大塚「じやあ、大阪へ自動車に乗つて逃げて行つて、無鉄砲に大阪へとびこんだわけやな」、小林「ええ」、大塚「そんで二〇分くらい、大阪市内を走つてから自動車を乗り捨てたと」、小林「ええ」、大塚「こういうわけか」、小林「ええ」

小林第二回口供録取書「乗り捨てた場所は附近の様子が全く変つておりましたので分りにくくて困りましたが、あの新しい洋館の建つている辺であつた事は間違いありません」

奥第一回口供録取書「自動車を奪つて小林が運転し、三田から宝塚に出て大阪へ逃げてその自動車を乗り捨てました」

奥、大塚録音テープ

大塚「それで大阪へ着いたら何時頃やつた」、奥「(暫く考えてから)何時頃かはつきり覚えてないんですけど、車に乗つたんが一〇時過やつたから、あくる朝の三時か四時頃やつたんと違いますか、それ位や思いますけど」、……大塚「その自動車を乗つとつて大阪へ逃げたんだから、それから計算すると大体大阪へ着いたのが何時頃や思う」、奥「一時間ちよつと、二時間ほどかかるやろ思いますさかい、一時か二時頃それ位なるやろう思います」、大塚「大阪へ行つたのが」、奥「はい」、大塚「大阪へ入つたのがそうすると翌日の午前一時か二時」、奥「はあ」、大塚「ごろやつたかと思う」、奥「はい」、大塚「で、そんな時分大阪へ着いてやねえ、何しとつたの」、奥「(考えながら)そんで寝るいうても寒いしさかいあんまり寝られへんし、駅でおつたように思うんですけど」、大塚「駅でおつたように思うてなあ、君、自動車に乗つて逃げたんだぜ」、奥「はい」、大塚「その自動車はどうしたんや」、奥「自動車は大阪で乗り捨てたように、乗り捨てました。大阪まで行つて」、大塚「大阪まで行つて乗り捨てた」、奥「はい」、大塚「どのへんに乗り捨てたん、見当つかんか」、奥「分れしません」、大塚「大阪の街へ入つてから、なんぼぐらい走つてからその自動車を乗り捨てたか」、奥「大阪の、大阪のどこから大阪になつとんかそれらはつきり分らへんから、分りませんはつきり」、大塚「ふん、まあとにかく大阪の街に入つてから自動車を乗り捨てた言うんだなあ、で、自動車を乗り捨てたその時刻は何時頃だつたと思う、大阪へ入つたのは翌朝の午前一時か二時ぐらいやなかつたかとこう言うんだな」、奥「はい」、大塚「そうすると、自動車を乗り捨てたのは何時頃や」、奥「(自信のない口振りで)だいたいおんなし時間ぐらい、大阪へ着いてもう、大阪駅、大阪駅行つたんか、車で行つたように思う……分らへん」

奥第二回口供録取書「自動車を乗り捨てた場所も昨日大阪へのコースをたどつて見ました時、大阪のその場所が洋館が建つているのでどうも変だと迷いましたが、昨日大阪から帰つてテープに録音してもらつたように、あの場所は様子は変つておりますが、大体間違いないと思います」

下山口供録取書(録音テープも同じ)「十三の鉄橋を渡つてあまり遠くへは行かなかつたように思いますが、その広い通りからちよつと横道に入つたように思いますが、ちよつと空抱がありましてそこへ自動車を乗り捨てたがはつきりした説明はできません」

下山第二回口供録取書「車を乗り捨てた場所は説明して写真をとつてもらつたが、附近の様子が変つているので確かなことは言えないが大体間違いないと思います」

自動車乗り捨て現場についての小林らの供述は以上のとおりであつて、これを概観すると小林の供述については第一回口供録取書と録音テープでは「大阪がどこから大阪かも分らないので乗り捨て場所は皆目見当がつかない」と言いながら、「大阪の街に入つて二〇分ぐらい走つた所で乗り捨てた」などと、これは明らかに当てずつぽうを述べていた小林が、奥と共に大塚に同行した実況見分後の第二回口供録取書では一転して断定的に乗り捨て場所を特定し、奥についても時に暫く考えてから口を開きまたあるいは考えながらそして全体に全く自信のない口振に終始し且つ大阪がどこから大阪か分らないから見当がつかないという乗り捨て場所に関する供述が、小林と共に大塚に同行した実況見分後は一転してこれまた場所を特定している。

そこで両名が場所を特定できるまでになつたについてはその間にどのような経過があつたか、特に右実況見分後の現場指示状況はどうであつたかを検討することとする。

小林は「十三大橋を渡つて直ぐに、大塚がタクシー運転手に小さい声でもう近いんやがなと言うのが聞えた。それで自分は三月一〇日事件で犯人が車をほかした場所はここやなと思つた。大塚がタクシー運転手に番地を言うてそこらグルグル探した。大塚は何か書いたものを持つていた。探して人に聞いても分らないから、大塚が交番で番地を聞いていた。学校の裏あたりになるというような話で、番地を尋ねて行くと入本と田中が奥へずつと走つてこの奥にあると言つて来た。そこへ皆一緒に行つた。大塚が附近の煙草屋のおばさんに、三二年の何月頃にここらで車捨てておいてなかつたかと聞いたら、朝起きてみたら鉄工所の空地に車が置いてあつたとの返事で、そこ違うかということで自分ら写真とられたわけである」と述べ、奥は「大阪市内に入つて広い道路で車がとまり大塚がお前ら車を乗り捨てたとこどこやこの辺りと違うかと言うので、自分もこんな広い道路には乗り捨てないやろと答えると、はつきりその場所は分らへんかと聞かれるので、もうこんなとこ記憶もないし分らへんと言つた。それからまた車に乗つて前の車についてそこら辺を見当にして、もうずつと細い路地へ入つたりしてグルグル回つた。路地に入つてから大塚が交番で地図をひろげて何か聞いていた。自分はそれを車の中で見ていた。それから前の車の後をついてそこら辺グルグル回り歩いた。自分の横に乗つていた人が乗り捨てた場所が分つたら言うてくれと言つたが、自分は分らなかつたから全然言つていない。十字路の手前で車をとめ大塚が十字路の角の煙草屋に聞きに行き、附近の今は家が建つているが当時空地の所に、四年程前に朝がた車が一台乗り捨ててあつたと煙草屋のおかみさんが言うていると伝え、そこで小林と自分と二人並んでいるのを写真にとつた。大塚が附近の様子が変つて分り難いやろうが大体想像してそこら辺と違うかと聞いた。自分はどう言うていいか分らなかつたし、ここら辺かも分らんと答えた。小林も同様に答えていた。」と供述する。一方同行した運転手松元は「十三大橋の辺りに来た後、大塚が小林にこの辺りから記憶はないかと聞いていたが、小林はよう分らんと言つてはつきりした返事をしていなかつた。大塚は自分に中津の先の学校の北側の十字路の所に行つてくれと言つて、私にその辺りの地図を見せてくれたがなかなかその学校が見つからず、大塚はその地図を渡して交番所へ聞いて来いと言つて聞きにやつたのでその後から自分もついて聞きに行つたが、そこで教えてもらつた小学校の辺りに行き大塚らも降りて附近の人に聞いていたが、学校が二つありそのうち大塚の行きたい小学校は反対側にあることが分り、やつと大塚がその地図に記してあつた小学校の近くに行つたが、その手前で水道工事のため車が通らずその手前でとめた車の中で二〇分位待つていた。他の者は皆降りてそこから五〇米か一〇〇米離れた建物の辺りで話したり、あちこち見て回つたり写真をとつたりしていた」と供述し、同じく同行の運転手平松は「自分は奥を乗せ前の大塚の車に従つた。十三に出て橋を渡つて一、二分大阪駅の方へ行つた坂道の辺りでとまり、大塚と義行が降りて地図を見て何か話していたが、それから大塚が乗つたままの小林にこの辺りで降りたのは事実やなあと聞くと、小林はいつも答えるように、ただ、はあと言つていた。それからまた元通り乗車しその坂道を降りた辺りグルグル車を回してどこか目的地を大塚が探しているようだつたが、交番所で尋ねたりして夕方薄暗くなつた頃に道路工事をしている辺りに行つて皆降りた。そこでも近くの煙草屋で尋ねたりして会社の様なコンクリート二階建建物の辺りに大塚が小林や奥を連れて行き、この辺りで捨てたんかなどと尋ね、同人らははつきりした返事をしていなかつたが結局そこに捨てたことになつたようだつた」と供述する。

以上の各供述を総合すると、小林、奥が積極的に運転手に指示しながら車を捨てた場所を探し当てたものではなく、すべて大塚が交番所や附近の煙草屋で尋ね歩いた末探し当てた乗り捨て現場に小林らを誘導して指示させたものであると認めるに充分で、右認定に反する大塚、義行の各供述は信用することができない。

一方、下山は「車は中津浜通の学校のとこまで来てとまつた。その場所へ車をとめるように大塚が指示した。自分はそこへ行くまで運転手に道案内は全然していない。……降りて附近をじつと見て大塚がこの辺覚えているか言うた時、僕知らんと言つた。大塚は煙草屋と長いこと話をしていた。自分は煙草屋の人が朝六時頃起きたらこの辺に車を突つこんでおつたと言うのを聞いた。そこでも写真をとつたが大塚が指させ言うから指でさし示した」と供述する。またこの際の同行運転手平松は「下山を乗せて実況見分に出た日は、有馬から宝塚を経て阪急池田駅の近くで昼食後、再び車に皆乗り大塚に前に行つた所へ行つてくれと言われて、小林らを連れて最後に行つた所へ運転して行つた。

……そこでも大塚が前に小林らにさせた様に同じ場所に連れて行つて何か話し、そこに立たせて写真をとつた」と供述し、同行の新聞記者福岡美彦は「十三大橋を渡つて中津のロータリの三差路を右折した。そこへ来たのは大塚が大阪の車の乗り捨てた所へ行こうと言つて来たと記憶する。その後また右折し更に左折した。その辺を大塚が非常によく知つているような感じがした。大塚がここ曲るんだなとかここをこうするんだなとかいうようなことで曲つて行つた記憶がある。左折する前後に大塚が車を捨てたのはこの辺やな、この辺見覚えあるかとの質問をしていたが、下山はこの辺ではないと言つていたと思う。左折して煙草屋の所まで行つたがそこへ行きつくまでにウロウロして相当時間がかかつた記憶はない。煙草屋の前で車をとめたがもちろん大塚の指示だと思う。自分が大塚に頼まれて煙草屋で二、三年前の早朝車が乗り捨ててあつたことがあるかどうかを聞いた。煙草屋の三〇前後の女性は裏の方の人に聞いてみたらはつきりしたことが分るんじやないかとの返事だつた。大塚の口振り態度から、前にこの場所へ大塚が来たことがあるように自分は受け取れた」と供述する。

以上を総合すると下山が自らの記憶をたどつて乗り捨て現場を探し当てたのではなく、前々日小林らを同行して右現場を訪れたばかりの大塚が下山を同行して再び訪れ、下山に現場の指示をさせたものと認めることができ、右認定に反する大塚、義行、田中の各供述は信用することができない。

以上要するに、小林ら三名の自動車乗り捨て現場の指示は大塚の誘導によるものであるから、乗り捨て現場に関する小林ら三名の前記各供述はすべて信用することができない。

(二) 結局、小林ら三名の自白は右各点の検討を総合し信用性がなく、「明らかな証拠」には当らないと言わねばならない。

第五、本件犯行現場に関する新証拠の存在

本件再審請求並びに同趣意書に証拠として引用されている、大塚及び樋野忠次と空野宏夫妻との対談を収録した録音テープ再生記録及び昭和三八年二月二三日付大塚義一作成の聞込と実況見分書と題する書面により、前記第一の二、の空野宏の供述につき検討を加える。

1、右録音テープ再生記録によると、主に空野宏は大塚義一に対し、「昭和三二年三月一〇日午後一一時半頃、自分の家に稲村清運転手が自動車強盗に襲われたと救を求めて来た。稲村は口のあたりから血を流して水にぬれ震えながら、今この上で三人組の自動車強盗にやられた、車から出て逃げるのが精一杯でその時のことは余り分らんが、夢中で川へ転げ落ち川伝いにここまで来たと話した。自分は直ぐ近くの天王谷学園で電話をかりて一一〇番に知らせた。間もなくやつて来た何人かの警官が稲村に現場は分つてるかと尋ね、稲村の分つているとの返事に現場に同行を求め、その際自分にも同行を頼んだので同乗して現場に行つた。現場は暗かつたが川の向い側の上に水防用ダムがぼんやり白く出ていた。自分は目標をダムにしたが、警官は附近の関電の電柱番号を調ベ二八号と言つていた。当時その現場には笹が下もすぐ見えないくらい相当に茂つていたが、笹が下向いてずつと折れた場所があり自分が見てここだと言つた。稲村もここだとはつきり言つたんだと思う。警官も間違いないと言つて、その場所と電柱との距離を目測で五、六米くらいかなと言つていた。その警官らの氏名は聞いていない。その後神戸医大の病院に行き稲村が手当を受け、警察署に一緒に行つて調書をとられた。現場を確認しに行つた警官が調書をとつた。午前二時過に帰宅したが、朝九時頃別の若い制服の警官が一人で訪ねて来たのでまた現場に案内した。現場附近に下駄は見当らなかつた。自動車のタイヤの跡もなかつた。その後本署の方から現場検証をやつた場所が自分の言う場所より更に約二〇〇メートル北に行つた所だということだそうだが、その場所を自分は長年ここに住んでいて間違えるはずがない。」旨供述している事実

2、右供述と大塚作成の前記聞込と実況見分書と題する書面を総合すると、空野の供述する現場と本件原確定事件において犯行現場とされている有馬街道上の神戸市兵庫区山田町小部森岡附近とに全く別異の場所である事実

以上がそれぞれ認められるから、空野宏の供述は結局、本件自動車強盗事件の真の犯行現場は原確定事件で認定された犯行現場と異なる前記電柱二八号附近である旨と解せられる。

第六、空野宏の右供述の新規性について

そこで空野の右供述が刑事訴訟法四三五条六号にいわゆる「あらたな証拠を発見した」ことに当るかどうかを先ず検討すると、原確定事件記録中には既に空野宏の司法警察員に対る昭和三二年三月一一日付供述調書が取調べられてはいるが、その趣旨は昭和三二年三月一〇日午後一一時三〇分頃自動車強盗に襲われたと稲村運転手から救助を求められ、直ちに警察にこれを連絡したというだけのものであつて、これ以外に犯行現場の地点については原確定事件終結に至るまで全く取調べられた形跡がない。従つて空野の前記犯行現場に関する供述は、審理終結後に初めて裁判所に認識可能の状態になつたものと言えるから、これが「あらたに発見された証拠」に当ることは改めて論ずるまでもない。

第七、空野宏の供述の明白性について

そこで「あらたに発見された証拠」である空野の前記供述が刑事訴訟法四三五条六号の「明らかな証拠」と言えるかどうかを検討する。

(一)  証人空野宏は昭和四一年一一月八日当裁判所の行つた証人尋問に対し、先ず証言に先立ち有馬街道上の関西電力の電柱二八号附近(以下C現場と称す)を実地に指示したうえ要旨次のとおり供述した。

「昭和三二年三月一〇日午後一一時半頃タクシー運転手稲村清が自動車強盗に襲われたと自宅に救を求めて来た、稲村は顔が血だらけで頭から全身水にぬれガタガタ震えて、話すのも震え声で何かおびえたような状態であり、どういうふうにして来たか、どの辺かと聞いても何かはつきりせず、ただ上の方だと言うだけだつた。自分は直ちに近くの天王谷学園で電話をかり警察に知らせた。間もなくジープで制服の警察官三名がやつて来た。警官が稲村に場所はどの辺か、行けるかと聞いており、稲村は前にうつすら石崖のようなものがあつた場所だと答えていた。警官がそんなものがあるかと自分に聞くので、自分はダムだなと今日指示したC現場の対岸山頂のダムが頭に浮び、実はあそこにダムがある。あのことだろうと答えた。警察が案内を頼むのであそこのダムへ行つてみようと自分が案内した形となつた。ジープの運転席の真中に稲村、端に自分が座つて出発した。稲村にどの辺かと聞きながらゆつくり走り、ダムならこの附近だと自分が言つて車をとめて下車した。そのとまた所が今日指示したC現場の一〇メートル位手前だつた。自分はダムだつたらここ以外にはないと説明した。目標にするためそばの電柱番号を調べたら二八号電柱と分つた。警官は稲村がすべり落ちた崖のくさむらを調べていたが、一ケ所さつと竹笹が折れたような形で溝がついていた。稲村がここだと言つていた。この時崖の下まで誰も降りなかつた。当時は舗装されていない道路でこの道の上も調べていたが、自動車のタイヤの跡、スリツプ痕、下駄や人の足跡などは全然なかつた。暗くて駄目だからまた夜が明けてからもう一度詳しく調べようということになつた。稲村に有馬街道へはどこから上つたのか聞いたが、川づたいに夢中で逃げて来たからはつきり分らないが、川底を無我夢中で下へ降りて来た、川の中を歩いて来たと言つていた。その後神戸医大病院に行き稲村が手当を受け、更に一緒に警察署へ行つて自分は別の私服の警官に調書をとられた。帰宅したのは午前二時半だつた、朝九時頃また別の制服警官二名が来て前夜の現場を尋ねたので一緒に現場へ案内した。現場にはものの一〇分もいなかつた。その日の午後また警察の車などがぞろぞろ上つて行つたことを勤めから帰つて聞いたが、その時は警察から案内を求められはしなかつたと家人から聞いた。昭和三八年二月頃になつて高砂市議会議員の樋野という人が突然現場へ案内を頼んだので同行したのがきつかけで事件当時の犯行現場が自分の知つている現場よりもう少し先の方になつていることを初めて知つた。その頃間もなくして大塚からも現場の案内を頼まれ、当時のことを話してほしいと言われてその話を録音したことがある。」

(二)  これに対し昭和四一年一二月一九日証人稲村清は、当裁判所の行つた証人尋問に対し要旨次のとおり供述した。

「事件当夜、空野宅に救助を求めた。車でかけつけて来た制服の警官に犯人はどつちの方に逃げたかと聞かれ、一台か二台の車は北の方へ行き、自分はもう一台の車で被害現場に行き、格闘してずり落ちた時の石崖の草とか小さい木の状態でこの辺だと指示したと記憶している。警官が懐中電灯で電柱の番号を確かめたような記憶はない。その石崖というのは現場の進行方向に向かつて左側が川で谷になつているので路肩が崩れないようにするための石崖と思う。その石崖の頭は道路面までは出ていなかつたと思う。その時空野が同行していたかどうかはつきり分らない。犯行当時の模様は、殺されると思い自分で落ちたら死んでも殺されるよりよいと考え自分から谷に落ちた。落ちたら川で少し下つて対岸の山に逃げこみ約一〇〇メートル向う側を下つて、上部がコンクリートで平にしてあつた石崖の上を下つてくると、石崖が終りみたいになつて仕方がないから降りてまた元の岸へ上り易い所から上つて来た。対岸から元の岸へ降りた場所はコンクリートで上を平にした石崖の終りだということは現在でも確信を持つて言える。元の岸へはどこから上つたかはつきりしない。そして元の岸の車で来た道を下つて初めて灯りのあつた空野宅に救助を求めた。」

右証言後、現場につき指示を求め、神戸市兵庫区平野町高座の空野宅附近から徒歩で有馬街道を北上したが、証人稲村独り先頭に立ち裁判官、弁護士、検察官等事件関係者は数十メートル後方から追随したところ、稲村は途中空野の指示したC現場には全く眼もくれず通り過ぎ、原確定事件犯行現場とされる同市同区山田町小部森岡(以下A現場と称す)の有馬街道上の関電電柱三五号の切株跡から南へ約三五メートルの地点(以下B現場と称す)に至り、この附近から川に落ちたと指示したうえ、更に「被害当夜警察官を案内した現場と本日案内したB現場とは同じと思う」と供述した。

(三)  以上空野、稲村両証人の各供述を比較検討し、且つこれに両証人の指示した各現場の模様地形等及び原確定事件記録中の稲村清の供述を併せて考察すると、

(1)  空野の指示するC現場の崖下を流れる天王川の対岸及びその下流に沿つた対岸一帯約一〇〇メートルの模様は、樹木の密生する大小不整な岩石の崖が連つており、稲村の供述する如く対岸の山へはい上つて後伏せてすかすようにして元の岸を見られるような地形でなく、また対岸を約一〇〇メートルも歩ける地形でもないこと、更に稲村の言う上部をコンクリートで平にした石崖も対岸のその附近一帯には全く見当らないこと

(2)  空野は稲村が救助を求めて来るのには無我夢中で川底を下へ降りて来た、川の中を歩いて来たと言つた旨供述するが、C現場附近から空野宅附近までの天王川流域は至る所に淵があるばかりか、大小不整の岩石の連続する危険な場所であり、照明もなしに深夜独りで川底を歩いて来れるような地形ではないし、稲村が一旦逃げこんだ対岸から再び附近の元の岸へ上り車で通つて来た道を下つて空野宅に至つたと供述するのと合致しないこと

(3)  空野の指示するC現場の落下地点は崖下までの高さ約八メートルの断崖で、これだけの高さをずり落ちたにせよ落下した人間が、その衝撃に耐えて直ちに川を渡つて対岸に逃げこめるか些か疑問であるに加え、C現場落下地点崖下から天王川の水ぎわまでは少し距離があり、崖をずり落ちるようにして落下したとしても、そのまま直ちに川の中に落ちこむ地形ではないが、稲村は崖をずり落ちるようにして落ちこんだところが川の中で全身ずぶぬれになり、その時三人の犯人はそれ石を投げろと言つて石を投げつけて来たと供述すること

(4)  空野の指示するC現場対岸山腹の崖上にはダムが望見されるが、本件当夜稲村は道路上で犯人らに散々暴行を受けて必死に防戦、崖を承知で殺されるよりはよいと自らずり落ちて川に落ちこみ、川を渡つて直ぐ対岸の土手をはい上り対岸の山に逃げこんだというのであるから、この対岸の山の上にあるダムは脱出に必死の稲村の眼に入る可能性は先ず乏しいと考えられ、また稲村が平素からC現場対岸のダムの存在を知つていたと見られる節はないこと、従つて空野の供述に認められるように、被害直後稲村が空野あるいはかけつけた警官に被害場所を説明して、「前にうつすらと石崖のようなものがあつた場所」、「うつすら石崖みたいなのが山の向うに見えた附近」と言つていたとしても、それが右ダムを指してのものではないと考えられること

(5)  空野は、事件当夜C現場には車のタイヤ跡、スリツプ痕下駄その他人の足跡も探したが全然見当らなかつた旨供述するが、稲村の供述する被害の模様から、路上に全く何の痕跡もなかつたとは考えられないこと

(6)  空野の供述は詳細に検討すると、空野は稲村が被害現場を「上の方だ」、「前にうつすら石崖のようなものがあつた」、「うつすら石崖みたいな、山の向うに見えていた附近」とおぼろげに話すのを聞いて、たまたま自分が知つていた前記ダムのことを稲村が言うものと独り早合点し、それならC現場附近と速断してしまつたのではないかとの疑があること、この点空野は尋問が何回も繰り返されるに従い、終り頃には「稲村が山の中腹みたいなとこ、ぼうつと白い石垣の塀みたいなものがあつた、その附近だ、と言つていた」と具体性を帯びた供述をするに至るが、空野の証言の経過から考え果して稲村がそのように言つたのか容易に信用できないと思われること

(7)  空野は「一一日朝九時過頃再び前夜とは別の警官から求められて前夜の現場に案内したが、ものの一〇分も現場にいなかつた。その後出勤して留守中に沢山の人が上の方へあがつて行つたが、家には寄らなかつたと家人から聞いた」と供述する。

一方、原確定事件記録中、司法警官員作成の昭和三二年三月一一日付A現場の実況見分調書によると、昭和三二年三月一一日午後三時半からA現場で司法警察員の実況見分が行われているから、同日午後早々には兵庫警察署員の本件捜査関係者が空野宅前の有馬街道を上つて行つたに違いないと考えられる。従つてそれまでに前夜来二度までも空野が警察官を案内し警察でも確認されているはずのC犯行現場附近を、この実況見分時に警察が素通りしてそれより更に北方有馬寄りのA現場でいきなり実況見分をするなどは、とうてい考えられないことである。また空野証言のとおりなら警察の認識するA現場とは別個に、事件発生直後からC現場を犯行現場と言う供述者の存在することが警察には当然判明していたと考えられるから、犯行現場の確認のためにも警察が空野の取調を行わないと不合理であるのに全くその形跡がないこと

(8)  昭和四一年一二月一九日に稲村の指示したB現場及び対岸一帯の模様は、同日現場指示に先立つて事件後殆んど一〇年を経て神戸地方裁判所構内で行われた証人尋問の結果とほぼ一致し、且つB現場の川への落下地点が原確定事件A現場の南方約三五メートルを距てるに過ぎないから、稲村の指示するB現場すなわちA現場と解して妨げないと考えられること、

また稲村は事件後現在まで裁判所から被害現場の説明を求められた機会にはA現場附近を終始指示しており、更に神戸市内あるいは事件後移つた現住地静岡県伊東市内等で空野、樋野らの来訪を何回も受け被害現場はもつと南の川下の方ではないかと繰り返し質問されているが、それにも拘わらずこれまたA現場附近に間違いないとその供述を貫き通していること

以上の事実から稲村の真の被害現場はやはりA現場附近と認められること

(9)  右次第で、被害者稲村の供述と重要な点で相違し且つ不可解な点の多い空野の供述は直ちに信用できず、従つて空野の大塚に対する前記録音テープ中の供述及びこれを基礎とする大塚作成の前記「聞込と実況見分書」と題する書面は、結局「明らかな証拠」には当らないと言うのほかはない。

第八、結論

本件再審請求の根拠として挙示する「小林ら三名の自白」と「空野証言」が、前述のような種々の角度からの検討の結果、いずれもいわゆる「明白性」を否定せざるを得ないとなると、本件再審請求はその理由がなく遂に棄却を免れない。

よつて刑事訴訟法四四七条一項に従い、主文のとおり決定する。

(裁判官 石丸弘衛 原田直郎 上本公康)

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